心頭滅却すれど火は熱し

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自分探しが無意味な理由

最近はあまり聞かれなくなりましたが、「自分探し」というのが流行った時期がありました。海外に行ったり、農業をしたり、芸術に取り組んだりすることで「本当の自分を見つけるんだ」と意気込むわけです。その結果時間とお金を浪費して、人生が余計に迷走してあら残念、というケースが多かったことが想像できます。そして一部の「たまたま自分探しが上手くいった人」がメディアに出て、そして新たなカモが「終わりのない自分探しの旅」に嵌め込まれたことでしょう。

 

もちろん今でも「自分探し」という言葉は力を失っているわけではありません。SNSでは、「私は海外にいって本当の自分を見つけました!!」という出羽守が跳梁跋扈をしています。

 

ただ、「自分探しに意味はない」という事もよく言われるようになってきました。「そんなわけわからんことするよりも勉強と仕事をしっかりやれ、まずは人生を進めろ、そのあとから『自分』が形成されるんだ」みたいなノリです。

 

確かにその通りなのでしょうが、それでは肝心な「自分探しに意味がない理由」が説明できていません。自分を探すよりもスキルを探す方がそりゃいいに決まっているでしょうが、「本当の自分はいったいどこにいるのか」という人生の悩みを先送りにしているだけです。それだと、地位と権力を得た後に「自分探し2.0」を始めてしまって、なまじっか影響力があるだけに自分だけでなく周囲の人に甚大な被害を及ぼしかねません。

 

というわけで、この記事では「自分探しに意味がない理由」についての私の見解を述べてみます。結論から言うと、「本当の自分」なんてものは思想上の幻想で、「本当の自分」を探そうとするのは、霧を掴むようなものだ、というところです。以下で詳しく見てきます。

 

「自分探し」「本当の自分」に潜む「思想上の幻影」 

まずは、「本当の自分」がただの思想の産物でしかないということを説明していきます。「自分探し」という言葉には、「自分という人間の中には、まだ自覚できていない確固たる本質が存在していて、その確固たる本質を見つけることで私は真の人生を切り開くことができる」とでもいうような前提が存在しています。

 

ここで大事なのは、「確固たる本質」という部分です。これを言いかえると「私の中には、私にとっての快感と不快感を冷静に計算する、不変の実体がある」とすることができるでしょう。余計にややこしくなってしまいましたが、要は「私のすべてを知っていて、私のすべてをコントロールできる『理性』が私の中に潜んでいる」という事になります。余計にややこしくなった?すみません。もうちょっとお付き合いください。

 

で、これに似た概念が重要な役割を果たす学問が存在します。経済学です。

 

経済学では、「効用関数」という概念が重要な役割を果たします。効用関数とは、「得られた財や富から、その個人がどれほどの満足度(効用)を受け取るか」というものを、中学校や高校で習う関数で無理やり置き換えたような概念です。

 

経済学ではその効用関数を重要な要素として議論を進めていきますが、じゃあ、あなたは経済学を完全に信じることができるでしょうか。経済学は確かに人間のふるまいを記述するのに威力を発揮しますが、常に「疑似科学」という批判を浴びている学問でもあります。

 

ここで言いたいのは、「自分の事をすべて理解してる理性や本質」というのは、「効用関数」という、疑似科学の誉れ高い経済学に出てくる概念とまったくもって同じだ、という事です。

 

「本当の自分」も「効用関数」も、理性というものを絶対視している近代的な思想の産物でしか無いと私は考えています。これは結局、神の意志だとか前世の因縁だとかの思想的な産物を絶対視していた昔の人たちと本質的には全く変わりません。

 

では、「自分」とは一体何なのか、そういう疑問がわき出てくるのは当然だと思います。今度はそれについて見ていきましょう。

 

「自分」とは、「環境の中の”流れ”でしかない」

方丈記』の序文は名分です。水の流れの中に浮かんでは消える泡、ただただ受動的に流されてははじける泡に人間を重ね合わせた文章は、読めば読むほど味が出てきます。

 

(以下方丈記の序文を引用します。読み飛ばしてもらっても構いません)

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし

 

結局、人間は川の流れに浮かぶ泡のようなものだ、流されて沈んで、結局ははじけてしまうものだ。このような『方丈記』の序文は、まさに「人間」を端的に表現していると思います。

 

人間は「環境」つまり川の流れにモロに影響を受ける存在です。お腹がすけば気が立って、睡眠不足なら眠くなって、満腹なら機嫌がよくなって、運動して風呂に入ればさわやかな気分になる。人間というものは、こうも環境に影響を受ける存在です。

 

「本当の自分」なんて存在しません。その時その時に置かれた状況によって、「本当にやりたいこと」はコロコロ変わってしまいます。そんなヤツのどこに「不変の実体」を求めることができるでしょうか?そして、「自分探し」とは、このありもしない「不変の実体」を探す無意味な旅に他ならないのです。

 

考えてみれば、人間という「動物」は、数十兆の細胞が集まった存在です。数十兆個の「命」の寄せ集めが人間なわけです。しかもその細胞たちは日々新しく生まれ変わっています。そんな集合体のどこに「不変の実体」を見つけることができるのでしょうか。人間の意識や理性なんていうものは、そういう集合体に操られた「何か」でしかないのです。

 

そんな「何か」をさらに細分化して、そのありもしない本質を探し求めるのが「自分探し」なわけです。あまりにも無意味な営みです。

 

人間というものは、遺伝と環境によって規定された中で、ただただ流れに身を任せるしかないちっぽけな存在だと、私は思います。

 

そして、人間はあくまで「細胞の集合体」です。ある細胞Aにとっては利益でも、別の細胞Bにとっては不利益だという事も十分にあり得ます。その利害調整に「本当の自分」とやらが介入する余地はありません。細胞Aと細胞Bのどちらが強いかの駆け引きでしかありません。そういった混沌こそ、人間であり、生き物なのです。

 

ただ、幸い人間は環境を変化させることができる生物でもあります。「今の自分」にとって望ましい状況を作り上げ、そしてその流れの中に身を任せるということが、唯一「人間」にとってできることなのではないでしょうか。それでも、現状の制約の中でしか、「環境を整える」という事は出来ないのですが。

 

「自分探し」が役に立つとき

散々「自分探し」の悪口を言ってきましたが、自分探しも稀に役立つ場面はあるでしょう。それは、「過去に自分が身を置いた環境が少なかった場合」です。例えば、地方都市で閉鎖的な環境に生きてた人が、東京の開放的な空気に触れるなどです。人間は環境に影響を受ける存在なので、環境が変われば当然行動も変わります。

 

新しい環境で、より快感を受けとることができ、満足度を高められたなら、それは「良い事」でしょう。それで人生を楽しむ事ができ、より生産的な活動に取り組めるなら、個人に取っても社会にとっても有益です。こういう状態を指して、「本当の自分を見つけた」というのかもしれません。

 

ただ、環境を変えるにしても時間と資金の制約があります。それに、環境をいくら変えても、そこに「他の人間」がいる限りは所詮誤差の範囲です。人間関係なんて、結局は小学校高学年の頃から本質は何も変わっていないのですから。同盟、対立、恋愛の要素に全てまとめることができます。

 

そういった制約のなかで、「より自分が楽しくいられる場所」を探すという事こそ、「自分探し」なんだと思います。ただ、その「場所」というのは、時間によって変化します。その場所を取り巻く人間模様は世代交代していきますし、自分の年齢によって周囲からの扱われ方も変わってきます。結局「不変」なんてものは存在しないのです。

 

人間は、環境によって思考も行動も変わってしまう存在です。そして、何十兆もの細胞の集合体でもあり、つねにあいまいさを含んでいます。そういう状況の中で、有り余る感性となけなしの理性をもとに、なるべく自分にとって「心地いい」場所を見つけて死守したいものです。

 

 

方丈記 (ちくま学芸文庫)

方丈記 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:鴨 長明
  • 発売日: 2011/11/09
  • メディア: 文庫