心頭滅却すれど火は熱し

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人文系の勉強は、人間が織りなすフラクタル構造を知れて、意外と役立つと思う

こんにちは、カラマゾフです。

 

人文系の勉強というと、お金にはならないイメージです。確かに、文学や思想、哲学や歴史などの人文系の勉強をするよりは、経済や法律、工学などの実践的な勉強の方がお金を稼ぐには役立ちます。人文系の中でも、例外的に言語系は翻訳などで直接お金儲けにつながることもありますが、語学スキルで稼げる金額は年々安くなっています。

 

そういった事情から、「人文系の勉強はカネと時間の無駄」とばかりに切り捨てるような発言をする人も一定数存在します。確かに、人文系の勉強をしたところで、個人の観点からいうと直接的な金銭的利益はほとんど期待できません。(ただ、人文系の知識を学ぶ人間がいること自体は、社会全体に利益をもたらします。それはまた別の話ですが)

 

しかし、人文系の勉強で得た知識は、意外なほどに役立つことがあります。人間関係などの場面において役立つので、コミュ力の強化といってもいいでしょう。そして、世間的には人文系の勉強は「教養を得る」などという文脈で語られています。「会計学や法学、工学などの実践的な知識は、すぐに役立つがすぐに時代遅れになる。所詮は小手先のテクニックだ。それよりは、古典を読み、歴史を知り、『物事の本質的な教養』を学ぶべきだ。教養こそ役立つのだ」といった意味合いです。(こういう文脈での「教養」は、大体において文学や歴史などの文系科目ばかりで、数学や物理学などの理系科目は除外されがちなのですが)

 

確かに、実践的な知識は廃れるのも早いので、その知識だけを学習するのは具合が悪いというのは納得できます。しかし、「教養」、文脈に即して言い換えると「人文系の知識」が、どういった場面で役に立つのかは、いまいちピンときません。

 

しかし、世の中を見てみると、人文系の知識があるからこそ読み取れる場面というのは意外なほどに多いです。そしてそれは、人間の思考や行動は千年前だろうと現代だろうと、西洋だろうと東洋だろうと本質は同じで、それはまるでフラクタル(一部分と全体の見分けがつかない構造や模様、海岸線や株価チャートの動き、雲の形など)のような構造を持っているからではないかと思うのです。

 

 

人文系の知識に潜む、フラクタルな模様

人文系の知識では、人間の思考や行動が千年単位で積み上げられたものがその多くを占めます。古代ギリシャから続く哲学の歴史や、1000年前の平安時代に本格的に花開いて以来ひたすら洗練されてきた日本の散文、文字の誕生以来記録され続けた歴史の知識などです。そして、これらのすべては人間の手によって生み出されたものです。どこを切り取ってもそこには人間の息遣いがあり、部分と全体は構造的に似通っています。まさにフラクタルともいえるのではないかと思うのです。

 

そして、人文系の知識の内、歴史や哲学にある程度詳しくなって、その「模様」をある程度理解できるようになった後に、視点を現代に移し替えると、驚くほど似たような「模様」が繰り返されています。国際情勢や政治、ビジネス上の競争などの対立構造は、大昔の大国の戦争とほとんど変わりがありません。新興勢力と既存勢力がパワーゲームを繰り広げるというのは歴史の定番です。昔の文学に描かれている「生きる上での悩みや喜び」は、大体今も同じです。徒然草山月記といった文学作品は、簡単に現代の話に置き換えることができます。哲学者や宗教家が残した思想は現代でも人々の思考に影響を与えていますし、全く新しいことを考え付いたつもりでも、大体は昔の思想家が似たようなテーマに取り組んでいます。

 

ビスマルクの格言に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というのがありますが、これこそまさに「歴史はフラクタルな模様であり、昔も今も人間がやることの本質は変わらない」という事なのだと私は考えています。また、「歴史は繰り返す」という言葉は、歴史がフラクタルな構造であることを、もっとも端的に言い現わしていると思います。

 

そしてそれは国家の興亡だけではなく、思想や文学の歴史、つまりは思想史や文学史でも似たようなものだと思います。宗教は往々にして過激な異端へ突き進むことがありますが、それはキリスト教からマルクス主義まで似たような展開を見せます。文学では、物語のほとんどがいくつかの類型に分けられると言われています。(Wikipedia・物語の類型

 

人文系の勉強では、そういった繰り返されるフラクタルな模様・構造を理解していくことが、かなり重要な事で役に立つ事なのではないかと私は思います。「歴史は暗記科目じゃない。流れをまずは把握するんだ」というのはよく言われることですが、これこそまさに「まずは構造を理解しろ」という事でしょう。もちろん個別の人名や地名の暗記も必要ですが、人文系の知識を実際に役立てたいのなら、それよりは構造を把握することに力を入れるべきだと思うのです。

 

フラクタルな模様の知識を、現実で役立てる場面

では、そうやって人間の思考や行動が織りなすフラクタルな模様の集積という人文系の知識の一側面は、具体的にどういった場面で活用できるのでしょうか。

 

分かりやすいのが国際情勢や戦争の理解です。現在、アメリカと中国が世界の覇権をめぐって争っていますが、結局は既得権益者であるアメリカと、新興勢力である中国の対立に他なりません。第一次世界大戦のイギリス・フランスとドイツの対立や、太平洋戦争における日本とアメリカの対立と根本的な構図は同じです。

 

しかし、歴史を知らない場合は、かなり視野を狭めてしまうことになります。「新興勢力vs既得権益者」という構図を知らなければ、正義と悪の対立に見えてしまうのです。そうなると、現代の米中対立においては、親中国の人はアメリカが絶対悪に、親アメリカの人は中国が絶対悪に見えてしまいます。この、「相手を絶対悪とみてしまう」という愚を犯したのが旧日本軍で、戦時中に鬼畜米英として欧米文化を排斥してしまい、「敵を知る」という事ができなくなりました。反対に、戦時中のアメリカは日本文化への研究を行い、そういった研究の成果は戦後に「菊と刀」という、日本文化論の傑作にまとめられています。そういった日本人への研究が、太平洋戦争でのアメリカの圧勝の一因になったことは否定できないでしょう。日本人の文化・思考を知ることで、日本軍の行動を予測でき、結果的に戦争を有利に進められるからです。

 

歴史を知ることで、目の前の対立を客観的に観察できるようになり、冷静でバランスが取れた対処が取れるようになります。また、今後の動向を予測するうえでも役に立つでしょう。個々の戦争や抗争を調べていくと、「これをやったら負けてしまう」というような原則が発見できることもあります。それをまとめた書籍に、「失敗の本質」という、旧日本軍の失敗をまとめたものがあります。

 

そして、歴史以外にも、思想を知ることも役に立ちます。思想を学んでいくと、過激な原理主義と、穏健な折衷主義の繰り返しが目につきます。その周期的と言っていいほどのリズムは現代も繰り返されていて、リベラル思想が最近は過激化しているように思えます。例えばスイスでは、「甲殻類の残酷な扱いを禁止する法律」が、2018年の3月に施行されましたが、これは「人道」や「権利」を是とするリベラル思想の原理主義化とみることもできるでしょう(動物の権利・人道的なロブスターの殺し方 スイスの場合)。思想が過激化していく場合は大体似ていて、それを知ることで、自分や周囲の人間が極端な思想にハマることをある程度防げるようになります。

 

また、欧州では移民の増加により社会秩序が崩壊してきていると言われていますが、これも「難民の受け入れは人道的な行為であり、難民の受け入れ拒否は人道にもとる悪行である」という「教義」に縛られて、許容量を超えた難民を受け入れてしまったが故の悲劇でしょう。現実離れした思想のせいで社会そのものが弱体化する過程は、清帝国儒教固執したり、ソ連共産主義を実現しようとしたりした末に歩んだ道にそっくりです。(もちろん、新自由主義固執している今の日本も)

 

そして、思想は個々人の考え方に知らず知らずのうちに影響を与えています。そのため、思想のいくつかの類型を知っていると、他人の思考が手に取るようにわかる場面が多々あります。わかりやすいのは、戦前の国粋主義的な思想を知っていると、現代の右翼の考えていることが大体予想がつくというのがあります。他には、ルソーのような極端な性善説を知っていると、「自然派」と揶揄される人々の思考がある程度までわかるようになります。また、資本主義は近代西洋思想の産物でもありますが、その資本主義の中で大きな役割を果たす経営者たちの思考は、個人の理性を尊重する近代の西洋思想で読み解ける場合が大半です。

 

つまりは、思想を知っておくことは、他人の思考を分析するツールを増やすことになり、人間関係において役に立ちます。相手の思考を分析するツールを多く持っていれば、「相手が嫌がることと喜ぶこと」を予想しやすくなり、人間関係を有利に持っていきやすくなるのです。また、文学も、人間の悩みや喜びが描かれたものですが、文学を通じて感情の代理経験を積むことも、人の気持ちを理解しやすくなることに繋がります。(とはいっても、完璧に相手を理解できるようになるのは無理ですが。あくまで多少ましになるといった程度です。私はもともとの理解力が低いので、今でも人間関係での失敗を繰り返しています…)

 

それに、思想や文学を通じて「思考や感情のストック」を蓄えておくと、バランスよく考え、感じることができるようになります。それを活用(悪用)すれば、他人の思考をコントロールできるようになるかもしれません。演説が上手い人というのは、自分の思考や感情をパッケージへと加工し、他人に伝達しやすい形にすることで、人を動かすことができます。その加工のプロセスにおいて、思考や感情のストックが多いことは有利に働くでしょう。

 

それを上手く活用している人に、社会学者の上野千鶴子があげられるでしょう。2019年東大入学式での彼女のスピーチは物議をかもしましたが、物議をかもしたその時点で「(賛成の方向にも反対の方向にも)人の心を動かす」ことに成功しています。良くも悪くも、彼女はその道の達人なのでしょう。

 

コミュ力増強」こそが、人文系の勉強の最大の効用かもしれない

歴史や思想、文学などの知識は、数千年にわたる人間の思考や行動の集積であり、その内部に潜むフラクタルともいえるであろう構造は、現実において役に立つという話をしてきました。

 

それは結局、「人間について知る」事だと、私は思います。そして、人間について知ることは、コミュニケーション能力の向上に繋がると考えています。とはいっても、「うぇーいww」と盛り上がるタイプのコミュ力ではなく、「社会状況や人間関係を踏まえたうえで、相手の考えや気持ちを推測し、相手の懐にそっとはいりこむ」といったタイプのコミュ力です。相手の懐に入ることができれば、他人からの信用や信頼を勝ち取りやすくなります。

 

いくら話し上手でも、他人の懐に入れない人は信用されません。「あの人の話は面白いんだけど、なんか薄っぺらいんだよなあ」というような状態です。逆に、口下手であっても何故か人気を勝ち取る人がいますが、そういう人は上手く相手の懐に入れているのかもしれません。

 

結局、自分も相手も人間の1個体で、数千年、数万年という歴史を持つ人類の一部分でしかありません。人文系の知識とは数千年にわたる人間の思考と行動の集積ですが、その集積の中にある構造と、個々の人間の思考や行動の構造がフラクタルであれば、その構造を把握することで、個々の人間の思考や行動への理解を深めることができると思うのです。その結果、現実の人間関係や、人間集団同士の政治的なやり取りにおいて、相手と仲を深めたり、状況を客観視して有利に立ち回ることができるのだと思います。

 

そのためには、歴史上の人物の名前や、ある思想家が打ち出したある概念について細かく暗記する必要は必ずしもありません。むしろ流れや構造の把握、現代との類似点といった部分に目を向けて、暗記よりも理解を重視した方が良いと思います。歴史や思想、文学などから、ある程度普遍的な構造を取り出せればよいので、個別的な細かい知識に囚われる必要は必ずしもないのです。(アカデミックな場で勉強するのであれば、細かい知識を習得する必要もあるでしょう。あくまで実用に役立てるなら、そこまで細部にはこだわらなくていいと思います。むしろアカデミックな場では、私の考えはそこそこの邪道だと思われます)

 

そして、「教養は根本的なものだから、長期的に役に立つ!」というような主張は、結局は「歴史や思想、文学を通じて人間を知ることで、人間の間で有利に立ち回る」という事なのだと思います。それは結局、コミュニケーション能力の向上であって、確かに役に立つでしょう。

 

ただ、忘れてはならないのは、何か特定のハードスキルが身につくわけではないという事です。人文系の教養にのみ特化して、人間の間で有利に立ち回れるようになっても、簿記がわからず、法務に詳しいわけでもなく、技術力があるわけでもなく、営業トークもできないとなれば、せっかくのコミュ力も豚に真珠といった状態になりかねません。人文系の知識はソフトスキルの向上には役立つかもしれませんが、基本的にハードスキルの向上にはつながりません(周辺知識が増えて、ハードスキルの習得に役立つ場面はあるかもしれませんが)。実務の世界で生きていくのであれば、そのあたりのバランスも大切になってくるのではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。