心頭滅却すれど火は熱し

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断捨離やミニマリストは、資本主義に究極に頼った生き方だという話

こんにちは、カラマゾフです。

 

「断捨離」や、「ミニマリスト」は、以前ほど流行らなくなったようですが、依然として実践者は絶えないようです。

 

確かに、家の中にモノが溢れていると、どうしても気が散ってしまったり、片付けが難しくなって衛生的ではなかったりします。そういった「モノが溢れている状態」を避けるために、身の回りの生活用品を最小限に抑えるというのは、理にかなった生き方だとは思います。(ちなみに私は本を溜め込む癖があるので、ミニマリストという生き方はできそうにありません)

 

「モノを減らすことで、居住空間を快適にし、生活の質を向上させる」という考えのもとで断捨離を行ったり、ミニマリストになるのであれば、それは素晴らしいことだと思います。自分にとって何が快適なのかを把握し、それを実践するという生き方は、非常に合理的だからです。

 

しかし一方で、「行き過ぎた資本主義・消費文化に異議を唱えるために、断捨離を行ったり、ミニマリストになる!」といった主張には、首をかしげざるをえません。なぜなら、断捨離やミニマリストといった生き方は、資本主義が高度に発達したからこそ可能になったからです。資本主義に意義を唱えるために、資本主義に頼った生き方をするというのは、なんともちぐはぐに見えてしまうのです。

 

今回は、そのことについて書いていきます。

 

市場(しじょう)でいつでもモノを調達できるからこそ、モノを捨てることができる

ミニマリストを目指したり、断捨離を行ったりするには、まずは身の回りのモノを捨てなければなりません。では、何故その「モノ」を捨てても困らないかを考えると、それは「いつでも買うことができるモノ」だからです。「アマゾンでポチるなり、ダイソーやイケアに行くなりすればいつでも買えるのだから、わざわざ手元に置いておく必要はない」、という理屈です。

 

そしてそれは、「市場(しじょう)」をフルに活用し、それに頼っているという事でもあります。市場(しじょう)とは、商品やサービスの取引が行われる場をすべてひっくるめて抽象的に表現した経済学の用語ですが、その市場が発達しているからこそ、モノをいつでも調達できるのです。(ちなみに、この記事において「市場」という言葉が出た場合、それは「いちば」ではなく、「しじょう」と読みます)

 

市場が発達していれば、お金を出せばいつでも必要なモノが買えるため、市場に頼ることは合理的な選択になります。市場が発達し、アマゾンやダイソーなどの小売業者が繁栄しているからこそ、必要なモノをいつでも調達できるようになっているのです。

 

逆に、市場が発達しておらず、小売業者や流通業者が未熟な状態を考えてみましょう。街中の店にいっても商品は不十分で、ネット通販なんてそもそも存在しないような状況です。そのような状況だと、「モノを捨てる」という事は、大きなリスクをもたらしかねません。後から必要になっても、捨てたモノは戻ってこないのですから。

 

「モノが溢れている時代に、モノを溜め込まない生き方を選択する」というのは、自分がモノを溜め込まなくても、「市場」がいくらでもモノを溜め込んでいて、必要な時にはすぐ手元に運んできてくれるからこそ成り立つのです。つまりは究極に市場に頼った生き方であり、資本主義の世の中だからこそ選択できるライフスタイルなのです。

 

ミニマリストとは、「家の中ではなく、市場にモノを置いておく生き方」と言い換えることもできるでしょう。市場からモノを引き出すためのお金と、モノについての情報を集めるための電子機器、そしていくつかの生活必需品を身の回りに置いてシンプルな生活を追究しつつ、緊急時には市場から即座にモノを買ってくればよいのです。

 

そして、自分の居住空間や生活を快適にするためにミニマリストという生き方を選択するのであればよいのですが、「資本主義に異議申し立てをする!!」といった意味合いでミニマリストという生き方を選択するのは、そもそも根本的にどこかちぐはぐなのです。

 

 

「モノが無かった状況」に生まれ育った人ほど、「モノを溜め込む」

では、断捨離やミニマリストとは対極の人たち、つまりは「モノを溜め込む人たち」は、どういったバックグラウンドを持っているのかを考えると、また違った景色が見えてきます。

 

「モノを溜め込む人たち」の筆頭と言えば、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんでしょう。モノが無かった時代に生まれた彼らは、現代に生まれ育った人間の目には異様に映るくらいにモノを大切にします。コンビニでもらったプラスチックのスプーンや、デパートでもらった紙袋、破れた古着などを大切に溜め込んでいるといった具合です。

 

そんな彼らのモノへの意識は、「モノを大切にする」というよりは、「モノに執着している」とすら見えることがあるのですが、それは彼らが決して「モノが溢れた資本主義社会において堕落している」からではありません。むしろ、「資本主義が未発達or機能不全で、モノが無かった時代の感覚を、今も引きずってしまっている」からです。

 

戦前や戦中の日本は、都市部はともかく農村部はまだまだ貧しかったですし、戦後もしばらくは物資不足でした。そんな状況に生まれ育った世代の人間にとっては、いつでも市場でモノが調達できるという事が感覚的に理解できないのでしょう。

 

また、現代でも貧しい家庭にはモノが溢れてて、逆に裕福な家庭にはモノが少ないという事も言われたりしますが、これもおそらく同じことでしょう。市場の恩恵を充分に受けられず、モノをいつでも調達できる状態ではないのであれば、モノを溜め込むのは合理的だともいえます。

 

「モノを極端まで減らす」というのは、資本主義が発達していて、その上市場からいつでもモノを引き出せるくらいに裕福だからこそできる事なのです。

 

 

 「資本主義」自体は別に汚いものではない

ということで、ミニマリストや断捨離は資本主義に頼った生き方であると書いてきました。資本主義が発達していて、市場からいつでもモノが取り出せるからこそ、身の周りのモノを最低限に抑えられるという事です。

 

そして、資本主義に疑問を感じてるからこそ、断捨離を行ったりミニマリストを実践するという事は、非常にちぐはぐなことだという事も理解いただけたと思います。

 

そもそも、「資本主義」を過度に汚いもの、唾棄すべきものだと考える思考自体が、根本的に間違っていると私は思うのです。確かに資本主義は労働者の搾取や、全てを商品化してしまう事に繋がり、人間にとって不幸をもたらすという側面は存在します。しかし一方で、個人の私利私欲を全体の繁栄につなげることで、人間の生活水準を大幅に向上させてきたという側面も存在します。

 

資本主義はあくまで価値中立的なもので、それを如何に上手く利用するかがポイントなのではないかと思うのです。それに対して異議申したてをするために断捨離やミニマリストを実践するというのは、消費パターンを変更するというだけの話であって、基本的には資本主義の中で踊っているにすぎないのだと思います。

 

それよりは、普段は持ち物を最低限にして居住空間を快適に保つ一方で、いざというときは市場を徹底的に利用するという心構えを持った方が、理にかなっていると思うのです。

 

そして、そういう考え方だと、「本当に捨てるべきモノ」が何なのかが見えてきます。いくら高価なモノであっても、市場で調達できるモノであれば、それは大事に所有していても意味がありません。

 

逆に、自分の必要な情報が詰まったスマートフォンや、「物自体への愛着」が湧いている漫画やグッズなど、「手放してしまったら、もう二度と同じモノや、自分にとって満足できるモノは手に入らないモノ」こそ、捨てるべきではないモノになります。市場では調達できないモノこそ、大切にするべきなのです。そして、それは人によって異なります。その辺を徹底的に考えてこそ、本当に生活の質を向上させることができるのではないでしょうか。

 

資本主義はあまりに巨大で、普通の人間がちょっとやそっと消費パターンを変更したところで揺らぐものではありません。逆に、そういった、「消費を切り詰めるという消費パターンを持った人」の存在をかぎつけるや否や、ターゲットに設定してきます。ミニマリストや断捨離を進める多くの書籍や、「シンプルライフ」を前面に押し出した家具などがその最たる例です。

 

それは逆に言うと、「自分が希望する生活パターンを提示すると、資本主義が勝手にそれに必要なモノを取り揃えてくれる」という事でもあります。資本主義は、真っ向から歯向かおうとするとカモにされてしまいますが、柔道のようにその巨大な力を逆に利用すれば、自分にとって利益をもたらしてもくれるのです。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

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