この世はいつでもディストピア

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季節の変わり目に、時の流れを突き付けられて、寂寞に包み込まれる

梅雨が終わりを迎え、夏が本格化してきました。

今年(2019年)は梅雨入りが遅く、涼しい初夏が長く続きました。そしてその分、梅雨入りと同時に訪れた、ねっとりした夏の空気に、いきなりたたき起こされたかのような衝撃を覚えました。

そしてそのような夏の訪れを実感する季節になると、私は毎回一種の寂寞、不安やむなしさが混ざったものに襲われます。セミの鳴き声や、晴れ間に見える入道雲、湿った風などに、夏の華やかさを感じる一方で、寂莫に包み込まれてしまうのです。

 

季節の風物詩、特に自然現象は五感に訴えかけ、無意識に働きかける

季節の風物詩というと、お盆やクリスマスなどの行事と、入道雲や木枯らしといった自然現象に分けることができます。中でも風物詩としての自然現象は、季節の変化を五感に訴えかけ、無意識の領域に浸透し、季節の鮮烈なイメージを思い起こしてきます。

例えば、セミの声を聴いた瞬間や、蒸し暑い風に包まれた瞬間、夏の日差しに目を焼かれた瞬間に、言葉ではいい表すことのできない「夏」を、体の底から実感したことがある方は多いと思います。

そして私は、そのように無意識レベルで「季節の変化」を感じる際、「時の流れ」も無意識レベルで感じ取ってしまう気がするのです。時間が流れていることは理性で把握することは容易ですが、肌で感じるとなると難しいものです。しかし、季節の風物詩はそういった障壁を軽々と飛び越えて、「時の流れ」を、肌で感じ取らせて来るのです。

季節が変化したことを実感すると同時に、時が移ろったことをもまた実感させられるのです。そしてそのことで、自分が時の流れの中にいることを直視させられるのです。

また、無意識の領域で季節を感じるということは、時の流れを実感させるだけではありません。無意識の領域に収納されていた過去の記憶を、一気に呼び起こしてくるのです。そしてそのことで、時が流れていることをより強く実感させられてしまいます。

 

過去に叩き戻されて、時間を浪費したことへの後悔に襲われる

記憶は五感に紐づけられていると、どこかで読んだ記憶があります。実際に、懐かしい匂いを嗅いだ瞬間に、過去の記憶が呼び起こされるということは、よくある事らしいです。

それと同じように、夏の到来を告げる自然現象は、五感に作用して、過去の夏の記憶を一気に呼び覚ましてしまいます。セミの鳴き声、ねっとりした風、ぬるくて冷たい夕立、こういったものがきっかけになって、普段は忘れていた記憶が、一気に思い起こされて押し寄せてくるのです。

それは、就学前のあいまいな記憶だったり、小学生の時の虫取りや泥遊びの記憶だったり、中学時代の部活の記憶だったり、高校時代の受験勉強の記憶だったりします。そういったとりとめのない記憶が、イメージの奔流となって押し寄せてきます。そのうちに、無秩序で混沌とした過去の記憶へと、意識が迷い込んでしまいます。

そうして過去に迷い込んでいるうちに、ある疑問がわいてきます。「今の自分は過去の自分よりも何か成長しているのか」「過去の自分に顔向けできるのか」「ただ生きてきただけで、時間を浪費しただけではないのか」「むなしく時を過ごしただけではないのか」といったようなものです。

そして、そのような自問自答を繰り返すうちに、自分の矮小さから目を背けられなくなり、どうしようもない自己嫌悪に落ち込んでしまいます。

 

過去に迷い込んだ後は、未来に迷い込んでしまう

そうして過去に迷い込んで、一通り自己嫌悪にさいなまれて現在に戻ってくると、今度は未来に迷い込んでしまいます。自分が通ってきた過去を振り返ることで、後々に通るであろう未来を眺めてしまい、いつの間にか未来に迷い込んでしまうのです。

そしてそこでも、不安や虚しさに襲われてしまいます。「今まで無為に過ごしてきた自分が、これから先何かを成し遂げられるのか」「まともな仕事でお金を稼いで健康的な生活を送れるのだろうか」「このまま年を取って、ただ終わりへと歩いていくだけではないのか」「仮に今から一念発起して何かを成し遂げられたとしても、どうせ後には何も残らないのではないのか」といったような観念に襲われるのです。

未来に対する漠然とした不安と、自分の人生に対する諦めが相まって、どうしようもない虚しさを覚えてしまうのです。そして、そうやって時間の流れの先にあるものを漠然と考えているうちに、無常というか、自分は所詮小さな存在で、雄大な時間の流れに翻弄されているだけにすぎないという事まで、思考が飛躍してしまうのです。

そして、ふと現実に戻ってきたとき、五感はいまだに夏を感じ続けています。そしてそこでまた、「こういった夏をこれから何回も何十回も繰り返すうちに、無為に時間を過ごして、最後は寿命を終えて時間の流れに沈み込んでしまうのだろうか」ということを考えてしまいます。そうなると、無性に逃げたくなるのですが、何から逃げたいのか、どこから逃げたいのかも分からず、ただ逃げたいという感情だけが募ってしまいます。

 

他の季節でも同じような寂寞を覚えるが、夏の寂寞は何かが違う

ぐちぐちと書いてきましたが、別に夏だけにそのような寂寞を覚えるわけではありません。春の桜にも、秋の夕暮れにも、冬の木枯らしにも、時間の流れを実感させられて、無為な日々を送った過去への後悔や、未来への漠然とした不安が入り混じった、奇妙な寂寞を感じることは変わりません。

しかし、夏に感じる寂寞は、他の季節に感じる寂寞よりもはるかに深くて、はるかに巨大なのです。夏を特別視してしまうのは、夏休み商戦を煽るメディアによる刷り込みに起因するものなのか、夏の華やかさによって生じるものなのか、単純に私の感性が偏っているだけなのか、どれなのかはわかりません。

しかし、理由がどうであろうと、私は夏の訪れに最も深い寂寞に包み込まれてしまいます。おそらくそれは一生変わらないのだと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。