この世はいつでもディストピア

色々と書いてみます。ツイッターもやってます(@karamazov012)

一部の教育ママに感じる闇と、不幸の再生産

こんにちは、カラマゾフです。今は二月の半ばで、ちょうど受験シーズンですね。

 

受験といえば、何かと業の深いテーマだったりします。年端のいかない子供にひたすら勉強をさせ、遊びも何もかも我慢をするイメージです。

 

とはいっても、高校受験や大学受験ほどになると、受験生自身も「この受験勉強で自分の人生が大きく変わる」ということを理解していて、能動的に勉強するのが結構当たり前です。

 

しかし、小学生に関してはそうではないでしょう。勉強が将来どのような形で役に立つのかわからないまま、勉強に没頭することになります。いや、正確にいうと「没頭させられる」と言ったところでしょうか。

 

両親の金銭的援助と、塾の伝統的なノウハウの元、一部の小学生は勉強に没頭します。そんな小学生と切っても切れないのが「教育ママ」です。

 

「教育ママ」は、子供の将来を願って、わが子に勉強を仕込みます。しかし、そんな「教育ママ」の一部には、どうしようもない「闇」を感じてしまう人もいるのです。端的に言うと、「自分が勉強が苦手だったから、子供にどう勉強を教えればいいのかわからない」タイプの教育ママです。

 

今回は、そんな教育ママの闇について書いてみます。

 

 

「自分が勉強で苦労したから、子供は徹底的に勉強させる」タイプの教育ママ

教育ママがわが子に勉強をさせる大きな理由に、「わが子に華々しいエリート人生を歩んでほしい」というのがあるでしょう。しかし、その動機の裏には、さまざまな事情があります。

 

例えば、教育ママ自身が有名私大卒などのエリートだった場合、「自分と同じような人生を歩んでほしい」というのが根底にあります。

 

一方で「自分は学生時代勉強でつまずいて苦労したから、わが子には同じ苦労をしてほしくない。小学生の早い段階のうちから勉強をさせれば、将来苦労することはないだろう」という考え方の教育ママも存在します。

 

そして、そのタイプの「自分は勉強で苦労したから、子供は徹底的に勉強させる」タイプの教育ママに、ある種の「闇の深さ」を感じてしまうことがあるのです。

 

彼女たちは、わが子に学力を仕込むために必死です。自分が味わってきた悔しさや苦労を子供に背負わせたくないためです。その思い入れはすさまじいものがあります。しかし、ある致命的な問題があるのです。

 

そのようなタイプの教育ママは、勉強の方法を知らないことが多いのです。自分が勉強で苦労したり、まともに勉強をしたことがなかったために、「効率的な勉強法」を知らないのです。

 

「効率的な勉強がわからない」ために、「非効率な勉強」をさせてしまう

「自分は勉強で苦労したから、わが子には徹底的に勉強させる」タイプの教育ママは、鬼気迫る勢いでわが子に勉強をさせます。しかし、彼女たち自身は勉強が苦手だったり、勉強をまともにしてこなかったタイプの人たちです。当然、「効率的な勉強法」が何なのかがわかっていません。

 

そのため、「わかりやすい方法」に飛びつくことになります。「字を徹底的に綺麗に書かせる」「ひたすら書き取りをさせる」「究極に整理された綺麗なノートを取らせる」などです。

 

これらの勉強法は非効率極まりないのですが、「勉強している感じ」はとても出やすい勉強法です。効率的な勉強方法がわかっていない彼女たちは、わが子にこのような「わかりやすいが、極めて非効率な勉強法」を押しつけがちなのです。

 

また、「勉強の方法がわかっていない」ことの弊害は、タイムマネジメントの面でも出てきます。

 

勉強を本気でやったことのある人ならわかると思いますが、人間の集中力には限界があります。その限界を超えて勉強に励むと、効率が落ちるどころか、やる気がそがれたり、心身がつかれはてたりしてしまい、勉強の効率に大きな悪影響を及ぼします。

 

しかし、「勉強の方法がわかっていないタイプの教育ママ」は、とにかく時間をかければかけるほど成果が出ると勘違いしています。そのため、わが子に集中力の限界を超える勉強時間を課すことになるのです。

 

そうなると子供は、非効率な勉強法で、無理な長時間を机にかじりつかされることになります。勉強の成果が出るはずはありません。成績は伸びないどころか落ちていきます。

 

成績が落ちたことで、教育ママは焦ります。そして、「もっと勉強させれば、もっと時間をかければ、わが子の成績は伸びるだろう」という発想になり、わが子に更に非効率で長時間の勉強を強いることになります。完全に悪循環です。

 

こうして、母子は悪循環のドツボにはまっていくことになります。

 

このタイプの悲劇は連鎖しかねない

この手の悲劇の恐ろしいところは、世代を超えて悲劇の再生産がされかねないことです。

 

「効率的な勉強法を知らない教育ママ」の下で育った子供は、当然学業成績が振るうことはありません。せいぜい地元の自称進学校から中堅私立大学にいければいい方でしょう。そして、その子供は、「自分は勉強が苦手だったから、人生で苦労した」という鬱屈した思いを抱えることになります。

 

そして、そのような子供が結婚し、わが子を持つ順番になると、「自分は勉強ができないために苦労したから、わが子には徹底的に勉強をさせて、自分とは違う輝かしい人生を送ってもらおう」と、考えるようになってしまいかねないのです。

 

しかし、そこでなされる勉強法は非効率なものになってしまいます。なぜなら、「効率的な勉強方法」を知らないためです。こうして、孫の代まで「勉強ができなかったための歪み」がリレーされていくことになります。

 

実際に、私の周囲でもそのような連鎖の中で苦しんでいるのだろうなという人は何人かいました。

 

そんな悲劇がこれ以上生まれないことを願っています。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

教育の効果: メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化

教育の効果: メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化

 

「面白くないタイプの陽キャ」について思う事

こんにちは、カラマゾフです。

 

スクールカーストというものは、意外なほどまで人生を大きく左右します。10代の時間を学校の中でどのように過ごしてきたかということは、人格に影響する重大な要素なのです。

 

地位が低かったら、卑屈になってしまう事があります。また、地位が高ければ、自信を持ったふるまいができるようになり、将来にわたっていい影響があったりします。

 

しかし、スクールカーストの中で地位が高かったために、「センス」が磨かれていない人がいるなあ、と感じる時もあります。今回はそのことについて書いていきます。

 

因みに、私はスクールカーストの中では中位~下位をさまよってきた典型的なキョロ充です。そのため、上位の人へのルサンチマン(恨み)があることも加味して読んでくださればと思います。

 

 

自信満々で面白くないことをいう一部の陽キャ

陽キャというか、目立つ人というのはたいてい面白い人です。彼らは磨かれた話術で笑いを提供してくれ、場をにぎやかにしてくれます。

 

そんな彼らは自信に満ちています。高いコミュニケーション能力で、華々しい学生生活を送ってきたからです。クラスメイトや部活の仲間にちやほやされたことで、自然と自信を持った態度が身についているのです。

 

しかし、そんな「陽キャ」の中にも一部、ものすごくつまらない人が存在するのも事実です。「おもんないタイプの陽キャ」は、自信満々でつまらないボケやギャグ、突っ込みを繰り出します。そして周囲はしらけかえるのですが、本人は自分がつまらないことを自覚することはありません。

 

さんざん場の空気を盛り下げるだけ盛り下げるのです。

 

そんなタイプの陽キャは大体、イケメンだったり運動神経が良かったりします。つまり、「コミュニケーション能力」がなくとも、スクールカーストで上位をキープできるだけの要素を持っているのです。

 

しかし、そのことが、「自分のつまらなさを自覚しない人間が生まれる」という、悲劇の元凶ともなってしまっているのです。

 

彼らは中高時代に「笑いを搾取」していたことに気付いていない

中学高校時代の、昼休みの時間を思い浮かべてください。黒板の前に立った二人の野球部員が漫才を披露しています。教室は笑い声に包まれ、非常にすがすがしい青春の一幕です。

 

しかし、本当にすがすがしいだけなのでしょうか。

 

野球部員の漫才は、冷静になって聞いてみたらクスリとも笑えないほどレベルが低い場合が大半です。内輪ネタや先生の物まねなどで何とか笑いを確保していますが、そのほかの「漫才としてのネタ」は大して面白くなかったりします。

 

しかし、そんな「冷静に考えれば面白くないネタ」でも、教室は笑いに包まれます。「野球部の権力」言い換えれば「スクールカーストの権力」が背後にあるためです。「野球部員が発したギャグには、とりあえず笑っておく」という空気はなかったでしょうか。

 

そんな風に「スクールカーストで笑いを搾取する構造」が、教室の中に潜んでいるのです。

 

生まれつきのコミュニケーション能力が高い人間が、スクールカースト関係なく笑いを取って、高い地位につくことはよくあります。しかし一方で、運動神経や顔面偏差値などで高い地位を獲得したが、コミュニケーション能力が低い人間も一定数存在します。

 

そのような「コミュニケーション能力は低いが、スクールカーストでの地位は高い」タイプの人間が、笑いを搾取するようになると、途端にしんどいことになります。

 

「面白くないタイプの陽キャ」は、「笑いを搾取している」ということに気付けません。そもそものコミュニケーション能力が低いために、自分がつまらない人間だということを自覚できないのです。

 

しかし、教室という特殊な空間では「笑いをとる(実際は搾取している)」ことができるため、彼らは自分のことを面白い人間だと勘違いしたまま、年を重ねてしまうのです。

 

「自分のつまらなさを自覚してない陽キャ」とはかかわらない方がいい

つまらない陽キャとは言っても、腐っても陽キャです。持ち前の積極性で、人間関係は割とにぎやかになります。そのため、彼らとかかわる機会はそこそこ多くなります。しかし、彼らとは深くかかわらない方がいいです。

 

まず、彼らは自分が「面白いことを言えない人間」ということを自覚していないのに、やたらと笑いを取りたがります。そのため、場は冷え込んでしまい、会話はつまらなくなります。

 

しかし、彼らは自分の面白さに根拠のない自信を持っているので、しらけたことを周囲のせいにします。その場合は、その場に居合わせた陰キャが犠牲になります。「お前が俺のギャグを拾わないせいでしらけた」と、彼らは本気で言ってきます。はっきりいって不快でしかありません。

 

また、笑いが取れないことに業を煮やして、弄りをかましてくることもよくあります。気遣いと面白さが両立している弄りならばいいのですが、コミュニケーション能力が低い彼らにそれは期待できません。

 

不快なうえに、何も面白くない弄りをかましてきます。そんなのに付き合うのは人生の損失ともいえるレベルです。彼らからは距離をとるのが正解でしょう。

 

 

そんな人がブログやツイッターで滑っているのを見ると、悲しくなるけどスッとする

話は転じて、ネット上の世界についてです。

 

ネット上の世界は、ある意味で平等で、ある意味でものすごく残酷です。面白い人は不細工だろうがニートだろうが犯罪者だろうが評価されます。一方で、つまらない人はエリートだろうが芸能人だろうが社長だろうが無視されます。

 

ごくまれに、そんなネット上の世界に「つまらなさを自覚していない陽キャ」が参入してくる時があります。特に、ツイッターやブログ、ユーチューブにそのような人は多い気がします。

 

彼らの作るコンテンツは見ていて痛々しいです。どこにも面白い要素がないのに、自信だけは満々です。しかし、コンテンツをいくらネット上にアップしても、他のユーザーが反応することはありません。

 

単純に面白くないからです。

 

その無反応というか、無視にさらされた彼らがだんだんと意気消沈していく様は、独特の悲哀を帯びています。しかし、スクールカーストの中で彼らの「クッソつまらない弄り」の被害を受け続けていた私のような陰気な人間にとって、彼らが意気消沈していく過程は、とても面白いコンテンツだったりするのです。

 

早い話が、ルサンチマンが一時的に解消される至福のひと時なのです。悲しい気分になると同時に、スッとしてしまうのです。

 

ただ、これ以上続けると陰気臭さが極まってしまうので、この辺で終わりにしておきます。

 

 

グチグチした内容に最後まで付き合っていただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

ウケる技術 (新潮文庫)

ウケる技術 (新潮文庫)

 

夜型人間にとっての「朝活」という地獄

こんにちは、カラマゾフです。

 

私は典型的な夜型人間です。読書も勉強も夜にやるのがはかどります。また、寝る時間も常に後ろへ後ろへとずれていきます。

 

「気合を入れて早起きしろよ!」「朝を制する者が人生を制するのだ!」といったお説教をしてくれる人もいるかもしれませんが、話はそう単純ではありません。朝型なのか夜型なのかは遺伝子レベルの体質で決まっていて、気合でどうにかできるのもではないのです。

 

www.y-create.co.jp

susumu-akashi.com

 

おそらく、夜型には私の自閉症気質も関係しているのでしょう。まあ、そこは置いておいて、今回はそんな夜型人間が、朝活を実行した場合に起きることについて、書いていきます。

 

何とか起床できるが、何もできない朝

「朝活!!」ということで、午前六時に起床します。個人的には起床に際して特に困難はありません。「寝起きが異常にいい」という体質なため、眠気をこらえつつも何とか布団から抜け出すことができます。

 

そしてコーヒーを淹れて、パンをかじりつつ、熱さをこらえてグイっと飲み干せば、もう眠気はあらかた飛んでいます。こうしてみると、なんとも有効な朝の時間がスタートしたように思えます。しかし、ここからが地獄なのです。

 

さて、カフェインの力で覚醒したところで、勉強や読書に取り掛かります。勉強だったら英語、読書なら哲学入門の書籍などといったところです。朝のスッキリした頭であれば、英語だろうと哲学入門だろうとスイスイ読めるはずなのですが、そうではありません。

 

むしろ、頭に靄(もや)がかかったように、遅々として読めないのです。無理やり読み進めようとしても、内容の理解ができず、字面の上をすべるようにしか読めません。

 

黙読ではらちが明かないので、声に出して読んでみるのですが、それも上手くいきません。内容の理解がおろそかなまま、声だけが空虚に響きます。

 

「やっぱり、頭を使う前に体を動かそう!」となり、ランニングや筋トレなどをしてみようとしても、同じような困難が待ち構えています。体が錆びついたようになり、まるで動かないのです。

 

そして、動かない頭と体を持て余した私は、ふと、「朝の空気」を味わい始めることになります。

 

私は夜型人間のくせに「朝の空気」が好きです。あのひんやりと張り詰めた空気や、柔らかく差し込む朝日が好きです。その心地よさに浸るあまり、やる気が全く出ずにボケーっとしてしまうこともよくあります。

 

そうして、睡眠時間と朝の有効な時間を失った私は、心地よい朝の空気に包まれながら、だらだらと時間を過ごすことになるのです。

 

エンジンがかからない午前

ということで、朝の時間を台無しにした私は、バイトや学校に向かいます。休みの日であればそのまま二度寝コースなのですが、人生そんなにうまくはいきません。

 

ただ、バイト先の業務や、学校での勉強に取り組み始めた私は、ある困難に直面します。頭が動かないのです。そもそも、朝に早起きをした時点で睡眠時間を削っています。夜に早く寝ればいいのですが、私は寝起きがいい反面、寝つきが悪い体質です。そのため、早寝ができず、必然的に遅寝になってしまうのです。

 

睡眠不足の頭は、平常通りの回転数を出してくれません。エンジンがかからない車を必死に運転しているようなものです。

 

また、前夜奇跡的に早寝ができていても、早起きしたことの悪影響からは逃れられません。なんだか頭がぼーっとするのです。寝不足とはまた違う頭痛のようなものに襲われるのです。

 

そうして、回転数の低さや、頭痛をカフェインでごまかしながら、何とか午前中を乗り切ります。

 

エンジンの回転数は上がるが、空回りする午後

回転数の低さをカフェインでごまかしていた午前を終え、昼食をかきこみ、できるだけ長い時間仮眠をとったら、午後の時間を迎えることになります。

 

仮眠の後のアイスコーヒーほどおいしい飲み物はないと、私は思っています。グイっと飲み干して、頭の回転数を一気に向上させていきます。午前中には時間がかかっていたタスクが見る見るうちに進んでいきます。まるで人が変わったようです。

 

しかし、決して作業は正確ではありません。回転数が上がった反面、精度が落ちてしまっているのです。まるで、エンジンは動いているのに、どこか空回りをしてしまっているかのようです。

 

もしくは、ハンドルがとりにくくなってしまった感じでしょうか。午前中はエンジンが動かない車を何とか運転していたのが、午後は、エンジンは上手くかかるのにハンドルの効きが悪い車を運転しているような感覚です。

 

また、集中力の切れ目には相変わらず眠気が襲ってきます。それに耐えつつ、何とかタスクをこなしていく感じです。

 

オーバーヒートしてしまい、眠るにも眠れない夜

さて、何とか午後も乗り越え、帰宅時間になりました。家に帰り、早めに寝て明日に備えようと思います。しかし、そうは問屋が卸しません。午後に回転数を上げた脳みそは、ここにきてオーバーヒートを初めてしまいます。

 

午前中も午後も、睡眠不足のために読めなかった本が読めるようになったりします。また、眠気を感じるようになるまでユーチューブなどで時間をつぶそうとすると、「眠気を感じなくなってしまっている」ために、かえって寝つきの時間が遅くなります。

 

また、何もかも放りだして布団に入っても、寝付けないまま一時間、二時間と空虚な時間が流れます。結局、布団から飛び出して勉強やネットサーフィンをすることになります。しかし、オーバーヒートしているので、勉強の効率は決して良くはありません。

 

そんなこんなで、時間はどんどん過ぎてしまい、結局遅い時間に寝付くことになります。昼間にカフェインを控えていても同じことです。おそらく自律神経が、寝不足に耐えかねて一種のバグのような状態に陥っているのでしょう。

 

神経が立ってしまい、眠りに落ちることができなくなってしまうのです。

 

こうして、寝不足のまま、次の朝を迎えることになり、朝活は私の生活をむしばみつつけることになります。

 

 

夜型人間なら、朝活はやめた方がいい 

 ということで、ぐちぐちと書いてみました。

 

そもそも、朝型人間と夜型人間が存在することは、人間の進化の歴史とかかわっているそうです。

 

人間の祖先がサバンナで生きていたころ、全員が一度に早寝早起きをしてしまうと、夜行性の動物に襲われてしまいます。そのため、夜型の遺伝子を持った個体が夜遅くまで起きていて、警戒に当たっていたという事です。

 

この話は、ネットで読んだ記事なうえに、どこで読んだか失念してしまい、ソースはないのですが、とても理にかなった話だと思います。

 

 

そもそも、朝活の目的は「朝の時間を有効活用することを通じて、人生をより豊かにする」という事でしょう。朝の時間を有効活用できず、むしろ朝に起きることが悪影響を及ぼしてしまう私にとっては、朝活は「人生を貧しくする」行為にすぎません。

 

 

ということで、夜型の遺伝子を持った私は無理に朝活に取り組まないようにしようと思います。そうすることが、私の人生を豊かにすると考えるからです。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

「稼いでいるアピール」をするブロガーたちへの違和感

こんにちは、カラマーゾフです。

 

私はこうしてブログを書いています。今のところアフィリエイトアドセンス(カネになる広告宣伝)などは仕込んでいないので収益は発生していませんが、いつか収益化したいなと思っています。また、有名になってライターとしてお仕事を貰って、お金を稼げたらいいなぁと夢想したりもしています。

 

しかし、ブログを書くために情報を集めたり、実際に他の人が書いた記事を読むと、ある種の違和感を覚えることがあります。

 

ねずみ講臭い」という違和感です。

 

今回はそれについて書いていきます。

 

「稼げてます!」と声高に叫ぶブロガーの謎

ブロガーというか、アフィリエイトで稼ぐ人は「月何百万稼ぎました!!」とアピールする人が多いです。しかし、よく考えると、この「稼げてますアピール」は不可解なのです。

 

「金儲け」に成功している人は、基本的にその「金儲けの方法」を他人に教えることはありません。ライバルが増えて、自分の取り分が減ってしまうからです。

 

確かに、「お金を稼ぐ方法を教えてあげよう」という善意の人もいるかもしれません。それに、ブログは人気商売の側面があります。そのため、人気にならなければ稼げないという構造があり、「アピールをする」というのはある意味では重要でしょう。

 

また、「稼げました!」という報告の意味合いもあるのかもしれません。ブロガー仲間と互いの達成額を報告しあい、明日のモチベーションにつなげているのかもしれません。

 

もしかしたら、単純な自己顕示欲かもしれません。「俺は稼げているぞ!」とアピールして、他の人間に自分の凄さを認識させたいだけなのかもしれません。

 

しかし、それを差し引いても「稼げているアピール」をするブロガーは理解ができないのです。「ライバルを増やしかねない」というリスクを冒してまで、わざわざアピールすべき事柄ではない気がするのです。

 

 

「ブログを書くハウツー」ばかり書かれたブログへの違和感

また、もう一つ違和感を覚えることがあります。「ブログを書くためのハウツーばかりを書いているブログ」です。

 

アフィリエイトの申請方法

アドセンスに通るためのコツ

ワードプレスのやり方

 

などばかりを書いたブログを見て、「誰に向けた情報発信なんだろう」と思ってしまうのです。当然、発信対象はブログを書いている人に向けたものなのでしょうし、私も当然その手の情報にはお世話になるのですが、それにしても、「読者からその先」が見えないのです。

 

言ってみれば、「何のためにブログのハウツーを書いたのか」「読者にどのような”効用”をもたらすために記事を書いているのか」といったことの先がいまいち見えないのです。

 

その答えは

「ブログの書き方を調べてる人に、ブログのハウツーを教えることで、読者の問題を解決する。また、記事に埋め込まれたアフィリエイトアドセンスから広告収入を得る」

というもので間違いがないでしょう。

 

それが悪いこととは言いません。しかし、私は疑問に思うのです。

 

「その記事を書いた筆者、ブロガーの《色》はどこにあるのか?独自性は何なのか?そもそも、なんで同業他社であるブロガーをわざわざ助けるのか?広告収入以外に何か目的はないのか?」

 

といったことを、考えてしまうのです。

 

「ブロガー」が増えないとお金が入らない商売

「稼いでいるアピール」をする人や、「ブログのハウツーばかりを教えてくれる人」が単純に非難するつもりではありません。私だって、そのようなアピールにつられてブログを始めたクチですし、また、ハウツー情報には大いに助けられています。

 

しかし、「お金以外の目的」が見えにくいのが、疑問なのです。

 

ブログのハウツーを書くことで、確かに助けられるブロガーはいるでしょう。しかし、「ブログのハウツーを書くことで、広告収入を得る」というビジネスモデルは、ブロガーが増えなければ先細りになってしまいます。

 

まるで、「ブロガー志望の人間を増やすために『稼げてるアピール』をして、そうやって増えたブロガー志望の人間に『ブログのハウツー』をぶつけることで、広告収入を得る」というモデルが組み上げられていて、そのためだけに記事を書いているという印象を受けるのです。

 

「ブロガーが増えないとお金が入らない商売」が展開されている気がするのです。それはどことなくねずみ講に似ていると言われても仕方ないのではないでしょうか。

 

また、そのようなモデルで組み上げられた記事を読んでいても、「書いた人の顔」が見えないのです。読んでいて、とてもつまらないと感じてしまうのです。

 

もう少し、読んでいて「書いている人の顔」がわかるようなブログが増えてほしいと思っています。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 カラマゾフでした。

 

 

能面の世界 (コロナ・ブックス)

能面の世界 (コロナ・ブックス)

 

 

「経営者は金の亡者で、不幸な拝金主義者」という誤解

こんにちは、カラマゾフです。

 

資本主義の現代社会において、経営者というのは非常に大きな力を持っています。カネを持っている者が偉いとされるこの資本主義社会において、彼らはこの世の勝者ともいえる存在でしょう。

 

その分、彼ら経営者に対して浴びせられる批判も多いです。中でも、「彼ら経営者はカネのために働いている。カネに魂を売っている。カネの亡者だ」というような批判が、最も多く浴びせられるものではないでしょうか。

 

まるで、「クリスマス・キャロル」に出てくるスクルージ爺さん(極度の拝金主義者で、カネのために多くの幸せを失った人物)のようなイメージです。

 

しかし、経営者の多くはそのような、カネに魂を失ったような不幸な人間ではありません。むしろ、非常に生き生きとお金儲け・ビジネスに取り組んでいるのです。

 

今回はそのことについて書いていきます。

 

ゲームを楽しむ少年のように、金儲け・ビジネスに取り組む経営者たち

経営者というか、お金儲けにいそしんでいる人に抱くイメージは「いやいや仕事に取り組んでいる」という事でしょう。家族との時間や趣味を犠牲にして、お金儲けに取り組んでいるイメージです。

 

しかし、現実の経営者たちはそうではありません。むしろ、非常に生き生きとお金儲けに取り組んでいるのです。それはまるでゲームに熱中する少年を思わせます。

 

実際に、文化祭の模擬店などの、ちょっとしたお金儲けを経験したことのある人なら、「カネが増えていく」ことの面白さは理解できるはずです。また、その経験がない人でも、シミュレーションゲームなどでお金儲けをしたときに、面白いと思った事があるかもしれません。

 

小規模な模擬店や、シミュレーションゲームですらも、お金儲けというのは非常に面白く刺激的な体験です。経営者という人種は現実で、何百万、何千万、何億といったお金を動かし、利益を追求しています。それが面白くないはずがありません。

 

カネを使って人やモノを集め、それを動かして利益を生み出すのがビジネスです。経営者というのは、ビジネスというゲームを通じてお金を増やすことを仕事にしています。そして彼らは、そのゲームに熱中し、楽しんでいる場合が大半なのです。

 

彼らは決して拝金主義者ではありません。むしろ、世の中をよくしようと思って、お金儲けに取り組んでいる場合すらあるのです。

 

「金儲け=悪」という単純な図式は成立しない

近代資本主義が発達する以前は、金儲けは暴力と結びついていました。世の中にある財産の数量は一定で、人々はそれを奪い合っていたためです。そのため、金儲けというのは必然的に暴力を伴うものであり、「金儲け=悪」だとみなされていたのです。

 

しかし、近代資本主義の発達により、「金儲け=悪」の単純な図式は崩壊しました。近代資本主義の下では、ビジネスを通じて世の中の財産を増やすことができるようになったためです。

 

ここら辺は色々とややこしい話なのですが、近代資本主義が発展する以前のお金儲けは「ゼロサムゲーム(誰かが得をしたら、誰かが損をするゲーム)」だったのが、近代資本主義の発展で、「プラスサムゲーム(全体で儲けるゲーム)」へと変わったのです。

 

要は、現代では必ずしも、誰から奪わなくても「お金儲け」ができる社会になっているのです。そのため「お金儲け=悪」という単純な図式は成立しません。むしろ、「社会全体の富を増やす」という事から、お金儲けは善とされ、推奨される社会になっているのです。

 

ただ、詐欺的だったり略奪的だったりするお金儲けの方法がないではありません。その辺について書いてみた記事があるので、リンクを貼っておきます。

karamazov012.hatenablog.com

 

とにかく、現代社会では「お金儲け=悪」という単純な話は成立しなくなっています。むしろ「お金儲け=善」ともいえるのです。経営者や起業家の方たちは、自分たちの行為が善であることを信じているからこそ、お金儲けに没頭することができるのです。

 

経営者には功罪があるが、彼らのおかげで世の中が回っているのは事実

 ただまあ、「金儲け=善」とされる現代社会でも、お金儲けが単純に「善」なのかと言われれば疑問が残るでしょう。

 

例えば、安い価格で料理や雑貨を提供してくれるチェーン店は、労働者を安い時給でこき使っていたりします。消費財メーカーは、消費者を宣伝漬けにすることで、無駄な消費へと行動を仕向けてきたりします。製造業者は、発展途上国の労働者を、奴隷のようにこき使っていたりすることもあります。

 

また、単純に倫理面に疑問を抱かざるを得ないビジネスモデルも存在します。元本割れのリスクがある金融商品を、押し売り同然に販売するビジネスなどです。

 

しかし、いくら「お金儲け」が完全な善ではなく、経営者が功罪半ばする存在だとしても、彼らが「ビジネスを展開する」ことで、世の中が回っていることも確かなのです。

 

ユニクロの安いジーンズがなければ、これほど多くの人が、カジュアルにジーンズを着こなすことはなかったでしょう。マクドナルドのハンバーガーが無ければ、これほど多くの人が、安くておいしい食事にありつけることはなかったでしょう。

 

また、輸送業者がいなければ物流は滞りますし、製造業者がいなければ大量生産は成立しません。金融業者がいなければ、企業が正常に活動できずに社会の動きが止まってしまいますし、不動産業者がいなければ、住む家を確保できなくなってしまいます。

 

経営者は完全な善行をしているというわけではなく、闇の部分がないこともないにせよ、彼らのおかげで現代の豊かな社会が成り立っているのは事実なのです。

 

そして、彼らは「とにかく稼ぐ」ことで、世の中の進歩に貢献し、人々の生活を向上させてもいるのです。そんな経営者たちを、「金の亡者」「不幸な拝金主義者」と単純に見なしてしまうのは、思考停止といってもよいでしょう。

 

世の中は持ちつ持たれつなのです。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

 

金と愛情(モテ)は、飢えてる人ほど、より飢えることになる

こんにちは、カラマゾフです。

 

世の中には、持つ者と持たざる者が存在します。何を持つのか、それはいろいろとあります。金、社会的地位、学歴、愛情、などなどです。

 

しかし、その中でも格差が大きく、また人生において大きな影響を与えるものがあります。「金」と「モテ」です。金を持っているのか持っていないのか、モテるのかモテないのか、というこの二つの格差は、人生を大きく変えてしまいます。

 

しかも、この二つの格差は「(金や愛情を)持たざる者ほど、それに執着することにより、それ(金や愛情)からより遠ざかってしまう」という共通の構図があります。

 

簡単に言うと、金に執着する貧乏人ほど、マルチ商法情報商材に引っ掛かります。モテない人間ほど、異性に対してガッつきすぎて嫌われてしまいます。

 

今回は、このことについて書いていきます。

 

貧乏人ほどカネにがめつい。非モテほど異性にガッつく

貧乏人はカネにがめつくなります。貧乏がゆえに、カネに常に追い回されることにより、カネに常に飢えた状態になるためです。

 

月末の光熱費引き落とし、カードの支払い、生活必需品の欠乏や、そして「今月はご飯を食べられるのか」といった様々な現実が、一気に貧乏人を襲うことになります。その恐ろしさは体験したことがなければ想像もできません。

 

「カネがない」というのは、独特な恐怖をもたらします。その恐怖から逃れるため、貧乏人はカネにがめつくなります。

 

また、非モテは異性にガッつくようになります。愛情に飢えているがゆえに、愛情が手に入りそうであれば、わき目もふらずにアプローチを仕掛けてしまうのです。

 

童貞はひたすらに「彼女が欲しい」と思っている場合が多いです。そのため、女の子と仲良くなるたびに変にがっついてしまうことがあります。

 

また、モテない女も同様です。モテる男に気に入られようとする挙句、都合のいい女になってしまったりします。

 

貧乏人、非モテに共通しているのは「余裕のなさ」です。この余裕のなさゆえに、筋の悪い執着をしてしまうのです。そしてこのことは、次に書く悲劇の原因となります。

 

カネにがめついからこそ、マルチ商法情報商材にはめ込まれる貧乏人

貧乏人はカネに飢えています。余裕がありません。だからこそ、カネにがめつくなり、「カネが手に入るチャンス」があれば、わき目もふらずに飛びつくことになります。

 

そんな「カネにがめつい貧乏人」を簡単にとらえてしまう罠が存在します。「マルチ商法情報商材」です。

 

「会員になれば販売利益で月収40万円!」や、「〇〇を勉強するだけで月収50万円!」といった、詐欺的ともいえるビジネスモデルは世の中にあふれています。普通にお金に困っていなければ、これらに手を出すことはありません。これらのビジネスモデルが「何かおかしい」ということに気付く理性があるためです。

 

しかし、貧乏にあえぎ、カネにがめつくなってしまっている人は違います。わき目もふらずにカネを求めてしまう結果として、筋の悪いもうけ話に手を出してしまうのです。その儲け話にのっかっても、当然稼ぐことはできません。むしろ「会費」だの「教材費」だのでカネを搾り取られるだけです。

 

貧乏ゆえに、客観的で冷静な思考力を欠いてしまい、結果としてカネを失ってしまうのです。そしてカネを失ったことにより、貧乏人は更にカネから遠ざかり、余計にカネに飢えてしまうことになります。

 

そうなると、「あなたもこうすれば儲かりますよ」という詐欺に、今まで以上に引っ掛かりやすくなってしまうのです。

 

ガッつくことにより、異性から愛されない非モテ

一方で、非モテは愛情に飢えています。余裕がありません。だからこそ、異性にガッついてしまいます。

 

非モテ童貞であれば、ガッつくことで女性にドン引きされてしまいます。非モテ女性であれば、「とりあえずフラれたくない」ということで体を許し、結果的にセフレに甘んじてしまいます。

 

非モテ童貞はとにかくセックスに飢えています。「女の子が自分を受け入れてくれた・愛情を注いでくれた」という意味でのセックスが手に入らないがゆえに、それに執着してしまうのです。

 

だからこそ、「もしかしたらこの子とセックスができるかもしれない」と思ってしまうと、非モテ童貞はその女の子にガッいてしまいます。実際には錯覚の場合が多いのですが。

 

しかし、そうやって「ガッつかれた」方の女の子からしてみれば、ただただ怖かったりして、ドン引きしてしまうだけです。そして、愛情に飢えている非モテ童貞は、更に愛情から遠ざかり、愛情に対して余計に飢えてしまうことになります。

 

そして余計にガッつくことになり、今まで以上に女の子から相手にされなくなってしまいます。

 

また、非モテの女性も同じようなものです。「彼氏or夫」の地位が欲しい、それらの地位にガッいてしまうために、イケメンやハイスぺの男性と仲が深まると、簡単に体を許してしまうのです。

 

しかし、いったんセフレになってしまうと、恋人や結婚相手という、「本当に愛情が注がれる立場」になることは難しくなってしまいます。だからこそ彼女たちも愛情に飢えることになります。

 

そして、愛情にガッつくがゆえに、余計に簡単に体を許すようになり、愛情から遠ざかってしまうのです。

 

少しづつ、地道に積み上げるしかない

貧乏人はカネに飢えることで、よりカネから遠ざかります。非モテは、愛情に飢えることで愛情から遠ざかります。

 

「飢えている人間」が、飢えているものにガッつくうちは、いつまでたってもカネや愛情を手に入れることができません。焦ってしまい、筋の悪い儲け話や、いつまでたっても相手にしてくれない異性に執着してしまうのです。

 

ブログや投資で、連鎖販売(マルチ)で一発逆転、大金を稼ぐことはできません。自分に魅力がないうちは、魅力的な異性に惚れこまれることはありません。

 

少しずつ地道に積み上げていくしか、方法はないのです。カネなら、毎月の節約と貯金を地道に積み重ねるしかないのです。恋愛なら、ファッションや身なりを地道に整え、コミュニケーション能力を磨くしかないのです。

 

飢えを我慢することは難しいことですが、それをぐっとこらえて、我慢して取り組んで、余裕ができるのをひたすら待つしかないのです。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

ヤンキーが掃除するのは「お祭り騒ぎ」の一環じゃないのかって話

こんにちは、カラマゾフです。

 

この記事を書いているのは2019年の1月の終わりですが、二週間ほど前に成人式があったところです。そして成人式で毎年恒例の話題があります。「ヤンキー」です。

 

ド派手な衣装に身を包み、いかにも「俺ら悪いっスヨ!」といったメンチを切り、ある意味で成人式の主役といえる彼らは、毎年TVやネットニュースで取り上げられます。

 

そして、彼らヤンキーが取り上げられると必ずと言っていいほど、ある光景が写真に収められ、拡散されます。「掃除をするヤンキー」の姿です。

matome.naver.jp

 

古い記事ですが、リンクを貼っておきます。

 

「ヤンキーが掃除をしたところで、彼らが悪行を重ねてきた事実は消えない」というのは真理ですが、今回は別の視点から、彼らが「掃除をする」という事について考えてみたいと思います。

 

ヤンキーは盛り上がることで、団結や絆を深めている

ヤンキーの生態を知るうえで、最も重要なことがあります。それは、彼らヤンキーは、「集団で盛り上がること、つまりお祭り騒ぎ」が大好きだという事です。

 

彼らは単純にお祭り騒ぎを楽しんでいますが、その盛り上がる過程において互いの連帯を確認しあっています。一体感の中に自分を浸して、「俺ら最強だぜ!!」という自信に酔いしれているのです。

 

人は群れると、自分たちが強いと思える生き物です。そして、群れで行動すれば、もっと自分たちが強いと思うことができます。ヤンキーが盛り上がっているのは、その錯覚を手に入れるためという側面もあるでしょう。

 

彼らはお祭り騒ぎの中で、自信に浸り、互いに友情と連帯を確かめ、団結を深めるのです。そのため、「盛り上がること・お祭り騒ぎ」は、彼らにとっては非常に重要な儀式であり、生きがいともいえるのです。

 

「ヤンキーは団結力が凄い」というのは、何度も「お祭り騒ぎ」をすることによって、互いに絆を深めあっているからです。

 

絆を深めることで、お祭り騒ぎをより盛り上げることができ、それによって更に絆を深め、また新たなお祭り騒ぎへ向けて絆を深める事ができます。その好循環の中にいるヤンキーたちは、当然強力な団結力を発揮するのです。

 

成人式の後の掃除も「お祭り騒ぎ」の一環じゃないのか

そんな、「お祭り騒ぎ」で互いの絆を深めあっているヤンキーですが、成人式は彼らにとって一生に一度の一大イベントです。

 

中学や高校卒業後に離れ離れになった友人達と再会し、晴れ着に袖を通し、華やかだった学生時代の思い出に再び浸れる、またとないイベントなのです。そのため、ヤンキーたちが成人式にかける熱量はすさまじいものがあります。

 

成人式は彼らにとって凄まじく重要なイベントであり、お祭りなのです。

 

そして、成人式の後に掃除をするヤンキーを見て、私はある感想を抱きました。「このヤンキーたちは、成人式というお祭り騒ぎをより盛り上げるために、掃除に励んでいるのだろう」と思ったのです。

 

もちろん、一つのイベントをより良いものにするため、街の美化に努める彼らの姿は美しです。しかし、掃除に一心不乱に励む彼らの団結をみて、私は「恐怖」を覚えたのです。

 

その「団結力」を、できることなら凶器に変えないでくれと思ったのです。

 

掃除をしているヤンキーの「連帯感」と、陰キャを集団で虐めるときの「連帯感」

学生時代、ヤンキーにとってのお祭り騒ぎはいくつか種類があります。体育祭や文化祭で盛り上がる、集団でバイクを乗り回す、などです。そんなお祭り騒ぎの中でも、手軽で面白いお祭り騒ぎに、「陰キャを集団で虐める」というのがあります。

 

具体的なことは書きませんが、ヤンキーたちがいじめられっ子を集団で虐めるとき、彼らはお祭り騒ぎに浸っています。そのため、その光景を間近で見たり、自分が被害者になりかねなかった陰キャからすると、ヤンキーのお祭り騒ぎは、恐怖の対象でしかないのです。

 

そして、高校卒業後に陰キャは、「ヤンキーのお祭り騒ぎ」から解放され、安心安全な世界でぬくぬくと過ごせるようになります。そんな平和を満喫している陰キャにとって、成人式でヤンキーたちが見せる「盛り上がりと連帯感」は、昔の恐ろしい記憶を呼び覚ますトリガーとなるのです。

 

そして、「成人式後、一心不乱に掃除に励むヤンキー」を見た時も、陰キャは苦い記憶を呼び覚まされます。真面目ぶったヤンキーほどタチが恐ろしい生き物はありません。なまじっか大義名分を手にしているため、「正義の鉄槌」といった感じで陰キャを徹底的にシめてくるのですから。

 

一心不乱に掃除に励むヤンキーたちの連帯感を目にした陰キャは、「その連帯感を凶器に変えて、俺たち陰キャを攻撃しないでくれ」と一瞬考えてしまうのです。その「牙」をこっちに向けないでくれと思ってしまうのです。

 

だからこそ、成人式の後に掃除に励むヤンキーたちをみた陰キャは、複雑な感情に取り巻かれるのです。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

ヤンキー人類学-突破者たちの「アート」と表現

ヤンキー人類学-突破者たちの「アート」と表現