心頭滅却すれど火は熱し

色々と書いてみます。ツイッターもやってます(@karamazov012)

自分探しが無意味な理由

最近はあまり聞かれなくなりましたが、「自分探し」というのが流行った時期がありました。海外に行ったり、農業をしたり、芸術に取り組んだりすることで「本当の自分を見つけるんだ」と意気込むわけです。その結果時間とお金を浪費して、人生が余計に迷走してあら残念、というケースが多かったことが想像できます。そして一部の「たまたま自分探しが上手くいった人」がメディアに出て、そして新たなカモが「終わりのない自分探しの旅」に嵌め込まれたことでしょう。

 

もちろん今でも「自分探し」という言葉は力を失っているわけではありません。SNSでは、「私は海外にいって本当の自分を見つけました!!」という出羽守が跳梁跋扈をしています。

 

ただ、「自分探しに意味はない」という事もよく言われるようになってきました。「そんなわけわからんことするよりも勉強と仕事をしっかりやれ、まずは人生を進めろ、そのあとから『自分』が形成されるんだ」みたいなノリです。

 

確かにその通りなのでしょうが、それでは肝心な「自分探しに意味がない理由」が説明できていません。自分を探すよりもスキルを探す方がそりゃいいに決まっているでしょうが、「本当の自分はいったいどこにいるのか」という人生の悩みを先送りにしているだけです。それだと、地位と権力を得た後に「自分探し2.0」を始めてしまって、なまじっか影響力があるだけに自分だけでなく周囲の人に甚大な被害を及ぼしかねません。

 

というわけで、この記事では「自分探しに意味がない理由」についての私の見解を述べてみます。結論から言うと、「本当の自分」なんてものは思想上の幻想で、「本当の自分」を探そうとするのは、霧を掴むようなものだ、というところです。以下で詳しく見てきます。

 

「自分探し」「本当の自分」に潜む「思想上の幻影」 

まずは、「本当の自分」がただの思想の産物でしかないということを説明していきます。「自分探し」という言葉には、「自分という人間の中には、まだ自覚できていない確固たる本質が存在していて、その確固たる本質を見つけることで私は真の人生を切り開くことができる」とでもいうような前提が存在しています。

 

ここで大事なのは、「確固たる本質」という部分です。これを言いかえると「私の中には、私にとっての快感と不快感を冷静に計算する、不変の実体がある」とすることができるでしょう。余計にややこしくなってしまいましたが、要は「私のすべてを知っていて、私のすべてをコントロールできる『理性』が私の中に潜んでいる」という事になります。余計にややこしくなった?すみません。もうちょっとお付き合いください。

 

で、これに似た概念が重要な役割を果たす学問が存在します。経済学です。

 

経済学では、「効用関数」という概念が重要な役割を果たします。効用関数とは、「得られた財や富から、その個人がどれほどの満足度(効用)を受け取るか」というものを、中学校や高校で習う関数で無理やり置き換えたような概念です。

 

経済学ではその効用関数を重要な要素として議論を進めていきますが、じゃあ、あなたは経済学を完全に信じることができるでしょうか。経済学は確かに人間のふるまいを記述するのに威力を発揮しますが、常に「疑似科学」という批判を浴びている学問でもあります。

 

ここで言いたいのは、「自分の事をすべて理解してる理性や本質」というのは、「効用関数」という、疑似科学の誉れ高い経済学に出てくる概念とまったくもって同じだ、という事です。

 

「本当の自分」も「効用関数」も、理性というものを絶対視している近代的な思想の産物でしか無いと私は考えています。これは結局、神の意志だとか前世の因縁だとかの思想的な産物を絶対視していた昔の人たちと本質的には全く変わりません。

 

では、「自分」とは一体何なのか、そういう疑問がわき出てくるのは当然だと思います。今度はそれについて見ていきましょう。

 

「自分」とは、「環境の中の”流れ”でしかない」

方丈記』の序文は名分です。水の流れの中に浮かんでは消える泡、ただただ受動的に流されてははじける泡に人間を重ね合わせた文章は、読めば読むほど味が出てきます。

 

(以下方丈記の序文を引用します。読み飛ばしてもらっても構いません)

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし

 

結局、人間は川の流れに浮かぶ泡のようなものだ、流されて沈んで、結局ははじけてしまうものだ。このような『方丈記』の序文は、まさに「人間」を端的に表現していると思います。

 

人間は「環境」つまり川の流れにモロに影響を受ける存在です。お腹がすけば気が立って、睡眠不足なら眠くなって、満腹なら機嫌がよくなって、運動して風呂に入ればさわやかな気分になる。人間というものは、こうも環境に影響を受ける存在です。

 

「本当の自分」なんて存在しません。その時その時に置かれた状況によって、「本当にやりたいこと」はコロコロ変わってしまいます。そんなヤツのどこに「不変の実体」を求めることができるでしょうか?そして、「自分探し」とは、このありもしない「不変の実体」を探す無意味な旅に他ならないのです。

 

考えてみれば、人間という「動物」は、数十兆の細胞が集まった存在です。数十兆個の「命」の寄せ集めが人間なわけです。しかもその細胞たちは日々新しく生まれ変わっています。そんな集合体のどこに「不変の実体」を見つけることができるのでしょうか。人間の意識や理性なんていうものは、そういう集合体に操られた「何か」でしかないのです。

 

そんな「何か」をさらに細分化して、そのありもしない本質を探し求めるのが「自分探し」なわけです。あまりにも無意味な営みです。

 

人間というものは、遺伝と環境によって規定された中で、ただただ流れに身を任せるしかないちっぽけな存在だと、私は思います。

 

そして、人間はあくまで「細胞の集合体」です。ある細胞Aにとっては利益でも、別の細胞Bにとっては不利益だという事も十分にあり得ます。その利害調整に「本当の自分」とやらが介入する余地はありません。細胞Aと細胞Bのどちらが強いかの駆け引きでしかありません。そういった混沌こそ、人間であり、生き物なのです。

 

ただ、幸い人間は環境を変化させることができる生物でもあります。「今の自分」にとって望ましい状況を作り上げ、そしてその流れの中に身を任せるということが、唯一「人間」にとってできることなのではないでしょうか。それでも、現状の制約の中でしか、「環境を整える」という事は出来ないのですが。

 

「自分探し」が役に立つとき

散々「自分探し」の悪口を言ってきましたが、自分探しも稀に役立つ場面はあるでしょう。それは、「過去に自分が身を置いた環境が少なかった場合」です。例えば、地方都市で閉鎖的な環境に生きてた人が、東京の開放的な空気に触れるなどです。人間は環境に影響を受ける存在なので、環境が変われば当然行動も変わります。

 

新しい環境で、より快感を受けとることができ、満足度を高められたなら、それは「良い事」でしょう。それで人生を楽しむ事ができ、より生産的な活動に取り組めるなら、個人に取っても社会にとっても有益です。こういう状態を指して、「本当の自分を見つけた」というのかもしれません。

 

ただ、環境を変えるにしても時間と資金の制約があります。それに、環境をいくら変えても、そこに「他の人間」がいる限りは所詮誤差の範囲です。人間関係なんて、結局は小学校高学年の頃から本質は何も変わっていないのですから。同盟、対立、恋愛の要素に全てまとめることができます。

 

そういった制約のなかで、「より自分が楽しくいられる場所」を探すという事こそ、「自分探し」なんだと思います。ただ、その「場所」というのは、時間によって変化します。その場所を取り巻く人間模様は世代交代していきますし、自分の年齢によって周囲からの扱われ方も変わってきます。結局「不変」なんてものは存在しないのです。

 

人間は、環境によって思考も行動も変わってしまう存在です。そして、何十兆もの細胞の集合体でもあり、つねにあいまいさを含んでいます。そういう状況の中で、有り余る感性となけなしの理性をもとに、なるべく自分にとって「心地いい」場所を見つけて死守したいものです。

 

 

方丈記 (ちくま学芸文庫)

方丈記 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:鴨 長明
  • 発売日: 2011/11/09
  • メディア: 文庫
 

 

「地方都市で原付二種を乗り回す」という現実的なスローライフの提案

 都会、特に東京に住んでいる人にとっては、都会の生活はせかせかしすぎていて、人間性や人生の意義を感じられないという事もあるでしょう。じゃあ田舎で「スローライフ」をすればいいじゃないか、という事になりますが、田舎も田舎で意外と住みにくい場所です。

 

 それならば、都会の非人間性から離れられて、なおかつ田舎の住みにくさからも離れた場所だと、「本当のスローライフ」を満喫できるのではないか、というのがこの記事の趣旨です。そしてその場所として、地方都市、その中でも駅近ワンルームが3万円程度で借りられる地方都市が適当なのではないか、という話をしていきます。ただ、留意点としては、この地方都市でのスローライフをするには独身者であるか、よほど肝の据わった配偶者がいるか、という条件が付いてきます。

 

 

田舎が住みにくい理由

スローライフ」というと、田舎でののんびりした暮らしをイメージするのが一般的です。とはいっても、田舎というのは住みにくい場所だ、ということも一般的に知られています。

 

 田舎といっても色々と程度はあるのですが、「スローライフ」で想定されているのは、人口数千人から数万人程度で、田園風景が広がる「農村」といった感じの場所でしょう。そのような田舎はよそ者として見物するにはのどかでいかにも住みやすい場所なのですが、実際に住んでみるとかなり「暮らしにくい」という問題があります。

 

 田舎の共同体の濃密さは、都会で生まれ育った人間には想像もつきませんし、極度に人好きな性格ではない限りは耐えられるものではありません。そもそも都会生まれ都会育ちの人間の大半は、「生活基盤を共同体に頼る」という経験をしたことがありません。労働力を市場で売却し、生活品を市場で購入し、場合によっては共同体への参加すらも市場を介して行ってきた都会の人間にとっては、共同体が重要な生活基盤となる「田舎」の生活は、想像もつかなければ耐えられるものでもないのです。

 

 田舎を「人と人のつながりがある、暖かい場所」と考えるのは、共同体が100%の善意で成り立っていると錯覚した都会人の妄想の産物です。学校のクラスのような小規模な共同体であっても、善意ではなくむしろ悪意と損得勘定がうずまくえげつない場所です。そして田舎の共同体というのは、住人にとっては生活基盤そのものであって、さらにえげつない損得勘定が働く場所になります。そんな場所に共同体初心者の都会人が乗り込むというのは、無謀にもほどがあるわけです。

 

 「田舎出身の素朴な主人公が都会で大恥をかき、その上他人に迷惑をかける」というのはフィクションにありがちな話です。ただ、都会はそのような黒歴史を忘れてくれます。単純に人間が多すぎるからです。逆に都会育ちの人間が田舎に出向いても、田舎でのふるまい方をわからないために、大恥も隠し迷惑もかけるでしょう。ただし、田舎は黒歴史を忘れてはくれません。人間の数が少なく、そのような黒歴史は共同体という社会システムに記録されてしまうためです。そしてその「前科」は、その田舎に住み続ける限りは一生ついて回ることになります。返済不能の借金を背負うようなものです。

 

 田舎の悪口を書いていると取られても仕方ないのですが、これは単純に社会システムの違いでしかありません。都会は市場経済に、田舎は共同体に生活基盤を依存しています。田舎の濃密な共同体しか知らずに育った人間にとっては、都会の「全てに値段が付く」という市場経済の論理は、人間性を欠いたうすら寒いものに感じられるでしょう。

 

 

 田舎と都会のいいとこどりと、「新しいスローライフ

 田舎が住みにくい理由は、「共同体が濃密すぎる」という事が大きな要因です。他にも病院や商業施設が近場に存在しないことや、交通の便が不便な事、そもそも仕事が存在せず経済的に不安な事、なども挙げることができます。逆に、都会が住みにくい理由は、人間が市場経済の論理が強すぎることがあげられます。家賃が異常に高いだけでなく、「人材価値」や「キャリア」といったものに精神をすりつぶしてしまい、人間関係も希薄になりがちという事があげられるでしょう。「自然を感じられない」というのも大きいかもしれません。

 

 そのような田舎と都会の短所を一気に補ってくれる場所が存在します。それは「駅近ワンルームが3万円で借りられる地方都市」です。東京で生まれ育った人には想像もつかないかもしれませんが、地方には築年数が比較的浅く、生活スペースも十分にある駅近ワンルームが3万円で借りられる物件が普通に存在しています。例えば大阪府枚方市はそのような物件があり、そして枚方市から大阪の中心部の梅田には電車で30分から40分ほどで行くことができます。まあ枚方は十分に「都会側」なのですが。

 

 枚方のような地方都心に近い場所であれば、ちょっと通勤時間を我慢すれば時給のいい仕事はありますし、今時流行りのウーバーイーツで収入を得ることもできます。これで経済面での問題はおおむね解決します。また、「人間の温かみを感じたい」というのであれば、その辺の個人経営の飲食店に何日か通えば解決するでしょう。「自然を感じたい」のであれば、兵庫県の須磨のような海辺の街や、京都府の宇治のような山のふもとに住めば解決します。

 

 そしてそんな生活の強い味方が「原付二種(125㏄のバイク)」です。原付二種の免許は最短二日で取得できますし、維持費も車や大型バイクより抑えることができます。通常の原付と違って時速60キロまで出せるので走りやすく、都市圏内で一般道を乗り回すには最適な車種です。休日はゆるゆるとツーリングをすれば田舎に出向いて田園風景を眺めることもできます。欠点は高速道路に入れないことですが、地方都市の都市圏内を生活基盤にするならば、高速にのる必要はありません。

 

 このような、家賃が低い土地に家を借りて、原付二種を乗り回す生活を、「現実的なスローライフ」として考えてみてもいいのではないでしょうか。個人的にはまだその選択をする予定はありませんが、「現実的なスローライフ」にはかなり憧れています。

 

 海辺や山沿いの地方都市で原付二種にまたがり、ウーバーイーツやアルバイトをしながら気楽に暮らして、仕事が終われば個人経営の飲食店で常連客と騒ぐ日々というのは、都会と田舎の良いところどりの「スローライフ」といえるのではないでしょうか。

 

収入を得る手段と、住む場所について

 その土地で正社員の仕事を得られるのであれば、それに越したことはないのですが、アルバイトで暮らすという選択肢もあり得ます。若い男性であれば、経済危機でバイトの口も少なくなっているとはいえ、派遣や単発の仕事は探せばいくらでも存在します。さらに原付二種を持っていれば多少遠い勤務先でも出勤可能なため、家賃が安い場所に住んで、時給が高い場所で働くことが可能になります。女性であっても、ウーバーイーツ、警備員、その他アルバイトを選ぶことができます。

 

 ちなみに警備員はおすすめのアルバイトです。基本的に警備員は高齢者ばかりなので、40歳以下でまともに動ける人間はそれだけで重宝されます。また、所属する警備会社にもよりますが、警備員として登録した後は、毎日出勤するのではなく、入りたい日にシフトを入れるという、単発バイトに近い働き方ができる場合もあります。

 

 単発バイト、警備員、ウーバーイーツなどに収入の先を分散しておけば、どこかのバイト先が潰れてもすぐに生活に困ることはありませんし、何よりも「バイト先に足元を見られる」という事を回避できます。特定のバイト先に経済的に依存してしまった場合、交渉力が低下して不利な時給やシフトを飲まされることがあるのですが、それを回避するわけです。

 

 そしてアルバイトで「守りの収入」を得る一方で、ブログやユーチューブなどを使った「ワンちゃん狙いの攻めの収入」を狙うのも効果的だと思います。地方都市独自の魅力を発信したり、新たなスローライフという形で発信したり、単純に趣味を発信したりなどです。ブログやユーチューブで稼げるのはほんの一握りですが、掛け金はほとんどかからない一方で、もしも跳ねた場合はかなりのリターンが得られるという意味で、悪い賭けではありません。

 

 そして、「地方都市で原付二種を乗り回すという現実的なスローライフ」が実践できそうな条件として、「人口100万人以上の地方都市に1時間以内でつくことができる」があります。理由は単純で、人口100万人以上の都市であれば十分な働き口があるからです。また、それほどの規模であれば商業施設もそれなりに充実していて、東京ほどではないにせよ、文化的な暮らしにつながることができます。

 

 基本的には政令指定都市の近くを選べば問題はないでしょう。因みに西日本の政令指定都市は、大阪市堺市京都市、神戸市、岡山市広島市小倉市、福岡市、熊本市、です。そしてそれら政令指定都市から10キロから20キロも離れれば、駅近ワンルームが3万円台、中には2万円台で借りられる物件がゴロゴロ存在しています。また、地方都市は食品産地から近く、食料品を安く手に入れられる場所もあります。

 

 細かく「この街がおすすめ!!」というのを列挙していったらきりがないので、ここでは具体的な街をお勧めすることはしませんが、政令指定都市から半径20キロメートル以内には確実に「駅近ワンルームが3万円で借りられる街」が存在します。そういった街を地図上で探して、そこでの生活を想像するだけでなんだかワクワクしてきます。

 

 「田園風景広がる田舎でのスローライフ」は、田舎の濃密な共同体で生き抜く必要があります。東京では家賃に収入の大半が消えてしまいます。自然豊かな地方都市の郊外で、快適で安いワンルームを借りて、原付二種を乗り回す「スローライフ」であれば、まだ実現可能だと思うのです。

 

 

 

海街diary

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人文系の勉強は、人間が織りなすフラクタル構造を知れて、意外と役立つと思う

こんにちは、カラマゾフです。

 

人文系の勉強というと、お金にはならないイメージです。確かに、文学や思想、哲学や歴史などの人文系の勉強をするよりは、経済や法律、工学などの実践的な勉強の方がお金を稼ぐには役立ちます。人文系の中でも、例外的に言語系は翻訳などで直接お金儲けにつながることもありますが、語学スキルで稼げる金額は年々安くなっています。

 

そういった事情から、「人文系の勉強はカネと時間の無駄」とばかりに切り捨てるような発言をする人も一定数存在します。確かに、人文系の勉強をしたところで、個人の観点からいうと直接的な金銭的利益はほとんど期待できません。(ただ、人文系の知識を学ぶ人間がいること自体は、社会全体に利益をもたらします。それはまた別の話ですが)

 

しかし、人文系の勉強で得た知識は、意外なほどに役立つことがあります。人間関係などの場面において役立つので、コミュ力の強化といってもいいでしょう。そして、世間的には人文系の勉強は「教養を得る」などという文脈で語られています。「会計学や法学、工学などの実践的な知識は、すぐに役立つがすぐに時代遅れになる。所詮は小手先のテクニックだ。それよりは、古典を読み、歴史を知り、『物事の本質的な教養』を学ぶべきだ。教養こそ役立つのだ」といった意味合いです。(こういう文脈での「教養」は、大体において文学や歴史などの文系科目ばかりで、数学や物理学などの理系科目は除外されがちなのですが)

 

確かに、実践的な知識は廃れるのも早いので、その知識だけを学習するのは具合が悪いというのは納得できます。しかし、「教養」、文脈に即して言い換えると「人文系の知識」が、どういった場面で役に立つのかは、いまいちピンときません。

 

しかし、世の中を見てみると、人文系の知識があるからこそ読み取れる場面というのは意外なほどに多いです。そしてそれは、人間の思考や行動は千年前だろうと現代だろうと、西洋だろうと東洋だろうと本質は同じで、それはまるでフラクタル(一部分と全体の見分けがつかない構造や模様、海岸線や株価チャートの動き、雲の形など)のような構造を持っているからではないかと思うのです。

 

 

人文系の知識に潜む、フラクタルな模様

人文系の知識では、人間の思考や行動が千年単位で積み上げられたものがその多くを占めます。古代ギリシャから続く哲学の歴史や、1000年前の平安時代に本格的に花開いて以来ひたすら洗練されてきた日本の散文、文字の誕生以来記録され続けた歴史の知識などです。そして、これらのすべては人間の手によって生み出されたものです。どこを切り取ってもそこには人間の息遣いがあり、部分と全体は構造的に似通っています。まさにフラクタルともいえるのではないかと思うのです。

 

そして、人文系の知識の内、歴史や哲学にある程度詳しくなって、その「模様」をある程度理解できるようになった後に、視点を現代に移し替えると、驚くほど似たような「模様」が繰り返されています。国際情勢や政治、ビジネス上の競争などの対立構造は、大昔の大国の戦争とほとんど変わりがありません。新興勢力と既存勢力がパワーゲームを繰り広げるというのは歴史の定番です。昔の文学に描かれている「生きる上での悩みや喜び」は、大体今も同じです。徒然草山月記といった文学作品は、簡単に現代の話に置き換えることができます。哲学者や宗教家が残した思想は現代でも人々の思考に影響を与えていますし、全く新しいことを考え付いたつもりでも、大体は昔の思想家が似たようなテーマに取り組んでいます。

 

ビスマルクの格言に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というのがありますが、これこそまさに「歴史はフラクタルな模様であり、昔も今も人間がやることの本質は変わらない」という事なのだと私は考えています。また、「歴史は繰り返す」という言葉は、歴史がフラクタルな構造であることを、もっとも端的に言い現わしていると思います。

 

そしてそれは国家の興亡だけではなく、思想や文学の歴史、つまりは思想史や文学史でも似たようなものだと思います。宗教は往々にして過激な異端へ突き進むことがありますが、それはキリスト教からマルクス主義まで似たような展開を見せます。文学では、物語のほとんどがいくつかの類型に分けられると言われています。(Wikipedia・物語の類型

 

人文系の勉強では、そういった繰り返されるフラクタルな模様・構造を理解していくことが、かなり重要な事で役に立つ事なのではないかと私は思います。「歴史は暗記科目じゃない。流れをまずは把握するんだ」というのはよく言われることですが、これこそまさに「まずは構造を理解しろ」という事でしょう。もちろん個別の人名や地名の暗記も必要ですが、人文系の知識を実際に役立てたいのなら、それよりは構造を把握することに力を入れるべきだと思うのです。

 

フラクタルな模様の知識を、現実で役立てる場面

では、そうやって人間の思考や行動が織りなすフラクタルな模様の集積という人文系の知識の一側面は、具体的にどういった場面で活用できるのでしょうか。

 

分かりやすいのが国際情勢や戦争の理解です。現在、アメリカと中国が世界の覇権をめぐって争っていますが、結局は既得権益者であるアメリカと、新興勢力である中国の対立に他なりません。第一次世界大戦のイギリス・フランスとドイツの対立や、太平洋戦争における日本とアメリカの対立と根本的な構図は同じです。

 

しかし、歴史を知らない場合は、かなり視野を狭めてしまうことになります。「新興勢力vs既得権益者」という構図を知らなければ、正義と悪の対立に見えてしまうのです。そうなると、現代の米中対立においては、親中国の人はアメリカが絶対悪に、親アメリカの人は中国が絶対悪に見えてしまいます。この、「相手を絶対悪とみてしまう」という愚を犯したのが旧日本軍で、戦時中に鬼畜米英として欧米文化を排斥してしまい、「敵を知る」という事ができなくなりました。反対に、戦時中のアメリカは日本文化への研究を行い、そういった研究の成果は戦後に「菊と刀」という、日本文化論の傑作にまとめられています。そういった日本人への研究が、太平洋戦争でのアメリカの圧勝の一因になったことは否定できないでしょう。日本人の文化・思考を知ることで、日本軍の行動を予測でき、結果的に戦争を有利に進められるからです。

 

歴史を知ることで、目の前の対立を客観的に観察できるようになり、冷静でバランスが取れた対処が取れるようになります。また、今後の動向を予測するうえでも役に立つでしょう。個々の戦争や抗争を調べていくと、「これをやったら負けてしまう」というような原則が発見できることもあります。それをまとめた書籍に、「失敗の本質」という、旧日本軍の失敗をまとめたものがあります。

 

そして、歴史以外にも、思想を知ることも役に立ちます。思想を学んでいくと、過激な原理主義と、穏健な折衷主義の繰り返しが目につきます。その周期的と言っていいほどのリズムは現代も繰り返されていて、リベラル思想が最近は過激化しているように思えます。例えばスイスでは、「甲殻類の残酷な扱いを禁止する法律」が、2018年の3月に施行されましたが、これは「人道」や「権利」を是とするリベラル思想の原理主義化とみることもできるでしょう(動物の権利・人道的なロブスターの殺し方 スイスの場合)。思想が過激化していく場合は大体似ていて、それを知ることで、自分や周囲の人間が極端な思想にハマることをある程度防げるようになります。

 

また、欧州では移民の増加により社会秩序が崩壊してきていると言われていますが、これも「難民の受け入れは人道的な行為であり、難民の受け入れ拒否は人道にもとる悪行である」という「教義」に縛られて、許容量を超えた難民を受け入れてしまったが故の悲劇でしょう。現実離れした思想のせいで社会そのものが弱体化する過程は、清帝国儒教固執したり、ソ連共産主義を実現しようとしたりした末に歩んだ道にそっくりです。(もちろん、新自由主義固執している今の日本も)

 

そして、思想は個々人の考え方に知らず知らずのうちに影響を与えています。そのため、思想のいくつかの類型を知っていると、他人の思考が手に取るようにわかる場面が多々あります。わかりやすいのは、戦前の国粋主義的な思想を知っていると、現代の右翼の考えていることが大体予想がつくというのがあります。他には、ルソーのような極端な性善説を知っていると、「自然派」と揶揄される人々の思考がある程度までわかるようになります。また、資本主義は近代西洋思想の産物でもありますが、その資本主義の中で大きな役割を果たす経営者たちの思考は、個人の理性を尊重する近代の西洋思想で読み解ける場合が大半です。

 

つまりは、思想を知っておくことは、他人の思考を分析するツールを増やすことになり、人間関係において役に立ちます。相手の思考を分析するツールを多く持っていれば、「相手が嫌がることと喜ぶこと」を予想しやすくなり、人間関係を有利に持っていきやすくなるのです。また、文学も、人間の悩みや喜びが描かれたものですが、文学を通じて感情の代理経験を積むことも、人の気持ちを理解しやすくなることに繋がります。(とはいっても、完璧に相手を理解できるようになるのは無理ですが。あくまで多少ましになるといった程度です。私はもともとの理解力が低いので、今でも人間関係での失敗を繰り返しています…)

 

それに、思想や文学を通じて「思考や感情のストック」を蓄えておくと、バランスよく考え、感じることができるようになります。それを活用(悪用)すれば、他人の思考をコントロールできるようになるかもしれません。演説が上手い人というのは、自分の思考や感情をパッケージへと加工し、他人に伝達しやすい形にすることで、人を動かすことができます。その加工のプロセスにおいて、思考や感情のストックが多いことは有利に働くでしょう。

 

それを上手く活用している人に、社会学者の上野千鶴子があげられるでしょう。2019年東大入学式での彼女のスピーチは物議をかもしましたが、物議をかもしたその時点で「(賛成の方向にも反対の方向にも)人の心を動かす」ことに成功しています。良くも悪くも、彼女はその道の達人なのでしょう。

 

コミュ力増強」こそが、人文系の勉強の最大の効用かもしれない

歴史や思想、文学などの知識は、数千年にわたる人間の思考や行動の集積であり、その内部に潜むフラクタルともいえるであろう構造は、現実において役に立つという話をしてきました。

 

それは結局、「人間について知る」事だと、私は思います。そして、人間について知ることは、コミュニケーション能力の向上に繋がると考えています。とはいっても、「うぇーいww」と盛り上がるタイプのコミュ力ではなく、「社会状況や人間関係を踏まえたうえで、相手の考えや気持ちを推測し、相手の懐にそっとはいりこむ」といったタイプのコミュ力です。相手の懐に入ることができれば、他人からの信用や信頼を勝ち取りやすくなります。

 

いくら話し上手でも、他人の懐に入れない人は信用されません。「あの人の話は面白いんだけど、なんか薄っぺらいんだよなあ」というような状態です。逆に、口下手であっても何故か人気を勝ち取る人がいますが、そういう人は上手く相手の懐に入れているのかもしれません。

 

結局、自分も相手も人間の1個体で、数千年、数万年という歴史を持つ人類の一部分でしかありません。人文系の知識とは数千年にわたる人間の思考と行動の集積ですが、その集積の中にある構造と、個々の人間の思考や行動の構造がフラクタルであれば、その構造を把握することで、個々の人間の思考や行動への理解を深めることができると思うのです。その結果、現実の人間関係や、人間集団同士の政治的なやり取りにおいて、相手と仲を深めたり、状況を客観視して有利に立ち回ることができるのだと思います。

 

そのためには、歴史上の人物の名前や、ある思想家が打ち出したある概念について細かく暗記する必要は必ずしもありません。むしろ流れや構造の把握、現代との類似点といった部分に目を向けて、暗記よりも理解を重視した方が良いと思います。歴史や思想、文学などから、ある程度普遍的な構造を取り出せればよいので、個別的な細かい知識に囚われる必要は必ずしもないのです。(アカデミックな場で勉強するのであれば、細かい知識を習得する必要もあるでしょう。あくまで実用に役立てるなら、そこまで細部にはこだわらなくていいと思います。むしろアカデミックな場では、私の考えはそこそこの邪道だと思われます)

 

そして、「教養は根本的なものだから、長期的に役に立つ!」というような主張は、結局は「歴史や思想、文学を通じて人間を知ることで、人間の間で有利に立ち回る」という事なのだと思います。それは結局、コミュニケーション能力の向上であって、確かに役に立つでしょう。

 

ただ、忘れてはならないのは、何か特定のハードスキルが身につくわけではないという事です。人文系の教養にのみ特化して、人間の間で有利に立ち回れるようになっても、簿記がわからず、法務に詳しいわけでもなく、技術力があるわけでもなく、営業トークもできないとなれば、せっかくのコミュ力も豚に真珠といった状態になりかねません。人文系の知識はソフトスキルの向上には役立つかもしれませんが、基本的にハードスキルの向上にはつながりません(周辺知識が増えて、ハードスキルの習得に役立つ場面はあるかもしれませんが)。実務の世界で生きていくのであれば、そのあたりのバランスも大切になってくるのではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

 

 

断捨離やミニマリストは、資本主義に究極に頼った生き方だという話

こんにちは、カラマゾフです。

 

「断捨離」や、「ミニマリスト」は、以前ほど流行らなくなったようですが、依然として実践者は絶えないようです。

 

確かに、家の中にモノが溢れていると、どうしても気が散ってしまったり、片付けが難しくなって衛生的ではなかったりします。そういった「モノが溢れている状態」を避けるために、身の回りの生活用品を最小限に抑えるというのは、理にかなった生き方だとは思います。(ちなみに私は本を溜め込む癖があるので、ミニマリストという生き方はできそうにありません)

 

「モノを減らすことで、居住空間を快適にし、生活の質を向上させる」という考えのもとで断捨離を行ったり、ミニマリストになるのであれば、それは素晴らしいことだと思います。自分にとって何が快適なのかを把握し、それを実践するという生き方は、非常に合理的だからです。

 

しかし一方で、「行き過ぎた資本主義・消費文化に異議を唱えるために、断捨離を行ったり、ミニマリストになる!」といった主張には、首をかしげざるをえません。なぜなら、断捨離やミニマリストといった生き方は、資本主義が高度に発達したからこそ可能になったからです。資本主義に意義を唱えるために、資本主義に頼った生き方をするというのは、なんともちぐはぐに見えてしまうのです。

 

今回は、そのことについて書いていきます。

 

市場(しじょう)でいつでもモノを調達できるからこそ、モノを捨てることができる

ミニマリストを目指したり、断捨離を行ったりするには、まずは身の回りのモノを捨てなければなりません。では、何故その「モノ」を捨てても困らないかを考えると、それは「いつでも買うことができるモノ」だからです。「アマゾンでポチるなり、ダイソーやイケアに行くなりすればいつでも買えるのだから、わざわざ手元に置いておく必要はない」、という理屈です。

 

そしてそれは、「市場(しじょう)」をフルに活用し、それに頼っているという事でもあります。市場(しじょう)とは、商品やサービスの取引が行われる場をすべてひっくるめて抽象的に表現した経済学の用語ですが、その市場が発達しているからこそ、モノをいつでも調達できるのです。(ちなみに、この記事において「市場」という言葉が出た場合、それは「いちば」ではなく、「しじょう」と読みます)

 

市場が発達していれば、お金を出せばいつでも必要なモノが買えるため、市場に頼ることは合理的な選択になります。市場が発達し、アマゾンやダイソーなどの小売業者が繁栄しているからこそ、必要なモノをいつでも調達できるようになっているのです。

 

逆に、市場が発達しておらず、小売業者や流通業者が未熟な状態を考えてみましょう。街中の店にいっても商品は不十分で、ネット通販なんてそもそも存在しないような状況です。そのような状況だと、「モノを捨てる」という事は、大きなリスクをもたらしかねません。後から必要になっても、捨てたモノは戻ってこないのですから。

 

「モノが溢れている時代に、モノを溜め込まない生き方を選択する」というのは、自分がモノを溜め込まなくても、「市場」がいくらでもモノを溜め込んでいて、必要な時にはすぐ手元に運んできてくれるからこそ成り立つのです。つまりは究極に市場に頼った生き方であり、資本主義の世の中だからこそ選択できるライフスタイルなのです。

 

ミニマリストとは、「家の中ではなく、市場にモノを置いておく生き方」と言い換えることもできるでしょう。市場からモノを引き出すためのお金と、モノについての情報を集めるための電子機器、そしていくつかの生活必需品を身の回りに置いてシンプルな生活を追究しつつ、緊急時には市場から即座にモノを買ってくればよいのです。

 

そして、自分の居住空間や生活を快適にするためにミニマリストという生き方を選択するのであればよいのですが、「資本主義に異議申し立てをする!!」といった意味合いでミニマリストという生き方を選択するのは、そもそも根本的にどこかちぐはぐなのです。

 

 

「モノが無かった状況」に生まれ育った人ほど、「モノを溜め込む」

では、断捨離やミニマリストとは対極の人たち、つまりは「モノを溜め込む人たち」は、どういったバックグラウンドを持っているのかを考えると、また違った景色が見えてきます。

 

「モノを溜め込む人たち」の筆頭と言えば、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんでしょう。モノが無かった時代に生まれた彼らは、現代に生まれ育った人間の目には異様に映るくらいにモノを大切にします。コンビニでもらったプラスチックのスプーンや、デパートでもらった紙袋、破れた古着などを大切に溜め込んでいるといった具合です。

 

そんな彼らのモノへの意識は、「モノを大切にする」というよりは、「モノに執着している」とすら見えることがあるのですが、それは彼らが決して「モノが溢れた資本主義社会において堕落している」からではありません。むしろ、「資本主義が未発達or機能不全で、モノが無かった時代の感覚を、今も引きずってしまっている」からです。

 

戦前や戦中の日本は、都市部はともかく農村部はまだまだ貧しかったですし、戦後もしばらくは物資不足でした。そんな状況に生まれ育った世代の人間にとっては、いつでも市場でモノが調達できるという事が感覚的に理解できないのでしょう。

 

また、現代でも貧しい家庭にはモノが溢れてて、逆に裕福な家庭にはモノが少ないという事も言われたりしますが、これもおそらく同じことでしょう。市場の恩恵を充分に受けられず、モノをいつでも調達できる状態ではないのであれば、モノを溜め込むのは合理的だともいえます。

 

「モノを極端まで減らす」というのは、資本主義が発達していて、その上市場からいつでもモノを引き出せるくらいに裕福だからこそできる事なのです。

 

 

 「資本主義」自体は別に汚いものではない

ということで、ミニマリストや断捨離は資本主義に頼った生き方であると書いてきました。資本主義が発達していて、市場からいつでもモノが取り出せるからこそ、身の周りのモノを最低限に抑えられるという事です。

 

そして、資本主義に疑問を感じてるからこそ、断捨離を行ったりミニマリストを実践するという事は、非常にちぐはぐなことだという事も理解いただけたと思います。

 

そもそも、「資本主義」を過度に汚いもの、唾棄すべきものだと考える思考自体が、根本的に間違っていると私は思うのです。確かに資本主義は労働者の搾取や、全てを商品化してしまう事に繋がり、人間にとって不幸をもたらすという側面は存在します。しかし一方で、個人の私利私欲を全体の繁栄につなげることで、人間の生活水準を大幅に向上させてきたという側面も存在します。

 

資本主義はあくまで価値中立的なもので、それを如何に上手く利用するかがポイントなのではないかと思うのです。それに対して異議申したてをするために断捨離やミニマリストを実践するというのは、消費パターンを変更するというだけの話であって、基本的には資本主義の中で踊っているにすぎないのだと思います。

 

それよりは、普段は持ち物を最低限にして居住空間を快適に保つ一方で、いざというときは市場を徹底的に利用するという心構えを持った方が、理にかなっていると思うのです。

 

そして、そういう考え方だと、「本当に捨てるべきモノ」が何なのかが見えてきます。いくら高価なモノであっても、市場で調達できるモノであれば、それは大事に所有していても意味がありません。

 

逆に、自分の必要な情報が詰まったスマートフォンや、「物自体への愛着」が湧いている漫画やグッズなど、「手放してしまったら、もう二度と同じモノや、自分にとって満足できるモノは手に入らないモノ」こそ、捨てるべきではないモノになります。市場では調達できないモノこそ、大切にするべきなのです。そして、それは人によって異なります。その辺を徹底的に考えてこそ、本当に生活の質を向上させることができるのではないでしょうか。

 

資本主義はあまりに巨大で、普通の人間がちょっとやそっと消費パターンを変更したところで揺らぐものではありません。逆に、そういった、「消費を切り詰めるという消費パターンを持った人」の存在をかぎつけるや否や、ターゲットに設定してきます。ミニマリストや断捨離を進める多くの書籍や、「シンプルライフ」を前面に押し出した家具などがその最たる例です。

 

それは逆に言うと、「自分が希望する生活パターンを提示すると、資本主義が勝手にそれに必要なモノを取り揃えてくれる」という事でもあります。資本主義は、真っ向から歯向かおうとするとカモにされてしまいますが、柔道のようにその巨大な力を逆に利用すれば、自分にとって利益をもたらしてもくれるのです。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

ヒュッゲ 365日「シンプルな幸せ」のつくり方 (単行本)

ヒュッゲ 365日「シンプルな幸せ」のつくり方 (単行本)

 

大企業正社員は、現代の下級中級貴族なのではないか

こんにちは、カラマゾフです。

 

現在の日本では、じわじわと広がってきた格差がそろそろ限界を迎えようとしている観があります。池袋での交通事故の容疑者(元官僚)に対する苛烈な突き上げや、N国党などの過激な政党が議席を獲得したことなどにも、格差拡大による不満の増大が見て取れます。

 

そんな中、経済的困窮からは(現時点では)遠いところにいる人々が存在します。大企業の正社員、中でも総合職の社員たちです。彼らは額面の給与こそ大した金額には見えない場合であっても、家賃補助をはじめとした福利厚生が手厚く、中には一年目で100万円以上を貯金できる場合もあるそうです。

 

とはいっても、そんな大企業の正社員であっても、決してこの先安心できるわけでもないというのは、よく言われていることですが。

 

そして、そんな大企業の正社員、特に総合職の人々を見ていて思ったことがあります。

「大企業の正社員は、現代での貴族階級といえるだろう。とはいっても、上級貴族というよりは、下級から中級貴族にすぎないけれど」

といったことです。大企業という定義はあいまいですが、東証上場一部の企業や、伝統ある日系大企業を想像していただければいいと思います。

 

今回は、そのことについて書いていきます。

 

「学力≒教養」と「洗練された立ち居振る舞い」を身についている、どことなく貴族的な雰囲気のある人々

大企業の正社員になるためには、それなりに勉強しなければなりません。最低でも、マーチや関関同立、地方国立大といった大学に入学できる学力が無ければ、そもそも大企業の門をたたくことはできないでしょう。できれば旧帝国大学早慶の受験を突破することが望ましいです。

 

「学歴は関係ない。人物重視だ」と言う人もいますが、大企業の多くは学歴フィルターといって、就活で選考を希望する学生を学歴で選別しています。

 

そして、大企業の眼鏡にかなう大学に入学するには、それなりの学力を身につけなければなりません。進研模試では、偏差値が60を超えたあたりから国立大学やマーチ関関同立といった大学の合格可能性が見えてくると言われています。進研模試はほとんどすべての高校生が受験する模試であるため、同世代の中でどの程度の学力があるかを最も把握しやすい模試です。

 

そして、偏差値60というのは上位16%ほどの位置にいることを表しています。つまり、大企業に入るには、大体の場合において「同世代の中で上位16%以内に入る学力」を身につけなければならないと言ってもいいでしょう。

 

(偏差値と上位の割合については、こちらのサイトがわかりやすいです)

komoriss.com

 

そして、「学力」という言葉は、「教養」という言葉に置き換えることも(無理やり感は否めませんが)できます。日本語だけでなく英語を読みこなす能力や、歴史や政治経済への知識、理数系の知識を網羅してこそ、上位16%の学力を手に入れることができますが、それは教養と言っても差し支えないでしょう。実際に、難関大学の学生とそうでない大学の学生では、「難しい話」への食いつきはかなり異なってきます。

 

そして、そのように同世代で(最低でも)上位16%の学力を身に着けた学生が、大企業の選考を受けることができます。そして、そのような学生たちは「就活」のなかでふるい落とされていき、その中でも立ち居振る舞いや言動がそこそこ優れている学生が面接などを突破して、晴れて大企業の内定を得ることになります。

 

つまり、大企業の正社員となれるのは、「上位16%以上の学力≒教養」と、「洗練された立ち居振る舞い」を両立している学生だけなのです。そう考えると、大企業の正社員は「貴族的な人々」といってもさほど違和感がなくなってきます。昔から貴族に求められていたのは「教養」と「マナー」ですが、その二つを持っているのが大企業の正社員なのですから。

 

実際に、大企業の正社員の人たちは、それなりに貴族的な雰囲気を発していることが多いです。それらは教養や立ち居振る舞いなどだけではなく、「経済的に恵まれていること」も、大きな要因になってきます。

 

経済的にはそこそこ恵まれているものの、経済的基盤はそれほど盤石ではない

 大企業の正社員は、経済的にはそこそこ恵まれています。社宅や家賃補助などを活用して、ただ同然の家賃で生活していることがありますし、そういった補助がなくとも、平均的な給与は他の中小企業と比べて恵まれたことが多いです。

 

そして、大企業の正社員は経済的に恵まれているために、それなりに質のいいスーツと靴を身に着けています。また、美容院に通ってヘアスタイルを整え、私服も質のいいものを取り揃えていることは珍しくありません。特に女性の場合はこの辺が顕著になる気がします。

 

経済的利点を生かして「身ぎれい」な状態を保っている彼らは、やはり貴族的といってもいい雰囲気を醸し出している場合が多いです。

 

そして、経済的に恵まれていることは、恋愛市場や結婚市場でも有利に働きます。家庭を持って子供を作ることは、もはや贅沢品ともいえる状況になっている現代において、彼らはなかなか恵まれた状況にいると言ってもいいでしょう。

 

しかし、彼らの経済的基盤は決して盤石ではありません。経済環境の変化によって所属企業の業績が悪化すれば、簡単にリストラされてしまいます。最近では、損保ジャパンの実質的なリストラスキームが話題になりました。

www.mag2.com

 

そういった経済的基盤の弱さという点に関しては、大企業の正社員はさほど恵まれているわけではありません。私が彼らの事を「下級貴族」「中級貴族」とたとえたのも、そういった経済的な基盤の弱さがあるためです。彼らは確かに恵まれた立場にはいますが、「もっと上の人のさじ加減一つ」で、簡単に経済的困窮に追い込まれてしまう、案外弱い立場の人々なのです。

 

「人生の脆弱性」に関しては、決して恵まれているというわけではない

 経済的は恵まれていても、経済的基盤については決して恵まれていない大企業の正社員の人たちですが、彼らは「人生の脆弱性」という点については、普通の人々と同じように常に危険にさらされています。

 

会社の命令1つでへき地に転勤する場合もありますし、結婚して共働きの場合は単身赴任か配偶者が退職するかを選択しなければなりません。また、マイホームをローンで購入したとして、隣人が「厄介な人」だった場合も、簡単に家を買い替えるわけにもいきません。何より、パワハラなどの職場トラブルで退職を余儀なくされる場合もあります。

 

大企業正社員の人々の人生は、意外なほど「脆弱性」が高いのです。そして、いったん大企業正社員という立場を失うと、意外なほどあっさりと没落してしまいかねません。元大企業正社員というだけで高給で雇ってくれるような、のんびりとした会社はおそらくほとんど存在しないでしょう。大半の企業にしてみれば、大企業をリストラされた30代40代の中年よりも、フレッシュな新卒を採用して育てる方が効率的だと判断するはずです。

 

そういった意味では、大企業正社員の彼らは確かに貴族的な雰囲気を持っていても、「最上位の階層」だとは言えないでしょう。あくまで、下級貴族、中級貴族と捉えるのが適切なのではないでしょうか。

 

結局は彼らも株主への配当や地主への地代を稼ぐための奴隷や傭兵でしかなく、真の「最上位の人々」というのは、地主や大株主などの資産家なのでしょう。不労所得で生活する資産家の人々は、まさに現代における本物の上級貴族と言っていいのかもしれません。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

不毛地帯(一) (新潮文庫)

不毛地帯(一) (新潮文庫)

 

昔の翻訳小説に出てくる「無理やりで説明的な翻訳語」の魅力

こんにちは、カラマゾフです。

 

外国文学を日本語に翻訳した小説では、「外国にはあるけれど、元々日本には存在しなかった物事」が頻繁に登場します。例えば、ワインやチョーク、オートミールなどです。現在ではそれらの言葉は外来語として定着しているため、外国の発音をカタカナに置き換えて表記されています。

 

ところが、昭和や明治大正の時代に日本に翻訳された小説では、これらの外来語が「日本語に置き換えられている」という場合があります。ワインがぶどう酒、チョークが白墨、オートミールが麦粥などといった具合です。

 

おそらく昭和以前には、一般的な日本人は外国の文化についてほとんど知識がなかったと思われます。そのため、例えば「ワイン」が何なのか、具体的に知っている人は少なかったのではないでしょうか。そんな人が小説を読んでいて、「ワインを一口飲んだ」という表現が出てきたとしても、いったい何の事かさっぱりわからなかったでしょう。

 

そして、そういう「読み手の知識不足」は、翻訳において頭痛の種になります。外来語として「ワイン」と押し通すと、読み手は何のことだかわかりません。かといって、日本にはもともとワインは存在しなかったので、適切な訳語があるわけでもありません。

 

しかし、何とかそれを解決する方法があります。「外国の言葉を、日本語で無理やり置き換える」という事です。例えば、ワインには「ぶどう酒」という訳語がありますが、おそらくこの言葉はそういった苦労の中から生まれてきた言葉でしょう。(違っていたら申し訳ないです)

 

ワインを知らない人であっても、「ブドウから作られたお酒」と言われれば何となく想像はつきます。そして、「ぶどう酒」という表現は、「ブドウから作られたお酒」を表現するには適切な造語になります。

 

他にも、「チョーク→白い墨→白墨」、「オートミール→麦で作った粥(かゆ)のようなもの→麦粥」などといった表現が、似たような言葉にあたるでしょう。

 

こういった「無理やり日本語に置き換えたような言葉」は、確かに外国にあって日本にないものを伝えるには適切ですが、一方でどことなくぎこちない感じがします。

 

外国文化が日本に浸透した昭和後期や平成時代に書かれた文章を読むと、大体において「ワイン」「チョーク」「オートミール」のような言葉は、外国語の音をそのままカタカナに置き換えた外来語として登場します。そのことは、「ぶどう酒」「白墨」「麦粥」といった言葉が、どうにもしっくりこないという事を裏付けているのではないでしょうか。

 

しかし私は、「無理やり日本語に置き換えたような言葉」にも、独特の味があると思うのです。そういった表現は、確かに語感としてはぎこちないものの、「物そのもの」、つまりワインであれば「ブドウから作られたお酒としての、ワインそのものの性質」を、リアルに感じさせる表現だとも思うのです。そして、翻訳小説などであれば、そういった「リアルな感じ」は、小説の世界観に没頭するうえでは、かなりの助けになってくれると思うのです。

 

そして、そういった話題についてツイッターで話していたところ、フォロワーの一人に、「エンジン→発動機」、という翻訳もいいですよ!堀口大学訳の『人間の土地』(原作はサン・テグジュペリ)の中に出てくる表現です」と教えてもらえました。

 

実際に読んでみたところ、「発動機」という表現は実際に出てきましたし、他にも「コート→外套」、「パイロット→操縦士」といったような表現もありました。

 

「人間の土地」は、飛行機乗りについての話なのですが、「エンジン」よりも、「発動機」という表現の方が、機械がガソリンを燃やして荒々しく音を立てる様子、その荒々しい動きが回転運動になってプロペラを動かす様子、そういった燃焼や動作から発せられる独特のにおいといったものが、感覚的に、リアリティを伴って立ち現れるような気がします。

 

そして、そういったリアリティこそが、「無理やり日本語に置き換えたような言葉」の最大の魅力だと思うのです。どれほど現代の日本に外国文化が定着しようと、外国、特に西洋の物事はまだまだ「異物」という感覚は否めません。「ワイン」などの言葉を、そのまま外来語としてカタカナで表現する方が確かに文章は引き締まるでしょうが、「異物が混ざっている」という感覚は拭えないでしょう。

 

一方で、「ぶどう酒」という表現は、ぎこちないのは確かですが、ワインそのものの性質を上手く伝えてくれて、日本人の自分にとってはワインが異物であることを一瞬忘れさせてくれます。むしろ、自分が西洋人になって、ブドウで造られたお酒を楽しんでいるような感覚にさせてくれる気がします。

 

「無理やりで説明的な翻訳語」は、確かにぎこちなさはあるのですが、その翻訳された単語そのものを上手くイメージすることができる上に、カタカナで表記される外来語独特の異物感を軽減してくれて、まるで自分が元々外国人であったかのような気分にさせてくれると思うのです。

 

最近では、そういった表現がどうにも少なくなっているのが、個人的には残念だなと思う時もあります。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

人間の土地 (新潮文庫)

人間の土地 (新潮文庫)

 

季節の変わり目に、時の流れを突き付けられて、寂寞に包み込まれる

梅雨が終わりを迎え、夏が本格化してきました。

今年(2019年)は梅雨入りが遅く、涼しい初夏が長く続きました。そしてその分、梅雨入りと同時に訪れた、ねっとりした夏の空気に、いきなりたたき起こされたかのような衝撃を覚えました。

そしてそのような夏の訪れを実感する季節になると、私は毎回一種の寂寞、不安やむなしさが混ざったものに襲われます。セミの鳴き声や、晴れ間に見える入道雲、湿った風などに、夏の華やかさを感じる一方で、寂莫に包み込まれてしまうのです。

 

季節の風物詩、特に自然現象は五感に訴えかけ、無意識に働きかける

季節の風物詩というと、お盆やクリスマスなどの行事と、入道雲や木枯らしといった自然現象に分けることができます。中でも風物詩としての自然現象は、季節の変化を五感に訴えかけ、無意識の領域に浸透し、季節の鮮烈なイメージを思い起こしてきます。

例えば、セミの声を聴いた瞬間や、蒸し暑い風に包まれた瞬間、夏の日差しに目を焼かれた瞬間に、言葉ではいい表すことのできない「夏」を、体の底から実感したことがある方は多いと思います。

そして私は、そのように無意識レベルで「季節の変化」を感じる際、「時の流れ」も無意識レベルで感じ取ってしまう気がするのです。時間が流れていることは理性で把握することは容易ですが、肌で感じるとなると難しいものです。しかし、季節の風物詩はそういった障壁を軽々と飛び越えて、「時の流れ」を、肌で感じ取らせて来るのです。

季節が変化したことを実感すると同時に、時が移ろったことをもまた実感させられるのです。そしてそのことで、自分が時の流れの中にいることを直視させられるのです。

また、無意識の領域で季節を感じるということは、時の流れを実感させるだけではありません。無意識の領域に収納されていた過去の記憶を、一気に呼び起こしてくるのです。そしてそのことで、時が流れていることをより強く実感させられてしまいます。

 

過去に叩き戻されて、時間を浪費したことへの後悔に襲われる

記憶は五感に紐づけられていると、どこかで読んだ記憶があります。実際に、懐かしい匂いを嗅いだ瞬間に、過去の記憶が呼び起こされるということは、よくある事らしいです。

それと同じように、夏の到来を告げる自然現象は、五感に作用して、過去の夏の記憶を一気に呼び覚ましてしまいます。セミの鳴き声、ねっとりした風、ぬるくて冷たい夕立、こういったものがきっかけになって、普段は忘れていた記憶が、一気に思い起こされて押し寄せてくるのです。

それは、就学前のあいまいな記憶だったり、小学生の時の虫取りや泥遊びの記憶だったり、中学時代の部活の記憶だったり、高校時代の受験勉強の記憶だったりします。そういったとりとめのない記憶が、イメージの奔流となって押し寄せてきます。そのうちに、無秩序で混沌とした過去の記憶へと、意識が迷い込んでしまいます。

そうして過去に迷い込んでいるうちに、ある疑問がわいてきます。「今の自分は過去の自分よりも何か成長しているのか」「過去の自分に顔向けできるのか」「ただ生きてきただけで、時間を浪費しただけではないのか」「むなしく時を過ごしただけではないのか」といったようなものです。

そして、そのような自問自答を繰り返すうちに、自分の矮小さから目を背けられなくなり、どうしようもない自己嫌悪に落ち込んでしまいます。

 

過去に迷い込んだ後は、未来に迷い込んでしまう

そうして過去に迷い込んで、一通り自己嫌悪にさいなまれて現在に戻ってくると、今度は未来に迷い込んでしまいます。自分が通ってきた過去を振り返ることで、後々に通るであろう未来を眺めてしまい、いつの間にか未来に迷い込んでしまうのです。

そしてそこでも、不安や虚しさに襲われてしまいます。「今まで無為に過ごしてきた自分が、これから先何かを成し遂げられるのか」「まともな仕事でお金を稼いで健康的な生活を送れるのだろうか」「このまま年を取って、ただ終わりへと歩いていくだけではないのか」「仮に今から一念発起して何かを成し遂げられたとしても、どうせ後には何も残らないのではないのか」といったような観念に襲われるのです。

未来に対する漠然とした不安と、自分の人生に対する諦めが相まって、どうしようもない虚しさを覚えてしまうのです。そして、そうやって時間の流れの先にあるものを漠然と考えているうちに、無常というか、自分は所詮小さな存在で、雄大な時間の流れに翻弄されているだけにすぎないという事まで、思考が飛躍してしまうのです。

そして、ふと現実に戻ってきたとき、五感はいまだに夏を感じ続けています。そしてそこでまた、「こういった夏をこれから何回も何十回も繰り返すうちに、無為に時間を過ごして、最後は寿命を終えて時間の流れに沈み込んでしまうのだろうか」ということを考えてしまいます。そうなると、無性に逃げたくなるのですが、何から逃げたいのか、どこから逃げたいのかも分からず、ただ逃げたいという感情だけが募ってしまいます。

 

他の季節でも同じような寂寞を覚えるが、夏の寂寞は何かが違う

ぐちぐちと書いてきましたが、別に夏だけにそのような寂寞を覚えるわけではありません。春の桜にも、秋の夕暮れにも、冬の木枯らしにも、時間の流れを実感させられて、無為な日々を送った過去への後悔や、未来への漠然とした不安が入り混じった、奇妙な寂寞を感じることは変わりません。

しかし、夏に感じる寂寞は、他の季節に感じる寂寞よりもはるかに深くて、はるかに巨大なのです。夏を特別視してしまうのは、夏休み商戦を煽るメディアによる刷り込みに起因するものなのか、夏の華やかさによって生じるものなのか、単純に私の感性が偏っているだけなのか、どれなのかはわかりません。

しかし、理由がどうであろうと、私は夏の訪れに最も深い寂寞に包み込まれてしまいます。おそらくそれは一生変わらないのだと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。