この世はいつでもディストピア

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人文系の勉強は、人間が織りなすフラクタル構造を知れて、意外と役立つと思う

こんにちは、カラマゾフです。

 

人文系の勉強というと、お金にはならないイメージです。確かに、文学や思想、哲学や歴史などの人文系の勉強をするよりは、経済や法律、工学などの実践的な勉強の方がお金を稼ぐには役立ちます。人文系の中でも、例外的に言語系は翻訳などで直接お金儲けにつながることもありますが、語学スキルで稼げる金額は年々安くなっています。

 

そういった事情から、「人文系の勉強はカネと時間の無駄」とばかりに切り捨てるような発言をする人も一定数存在します。確かに、人文系の勉強をしたところで、個人の観点からいうと直接的な金銭的利益はほとんど期待できません。(ただ、人文系の知識を学ぶ人間がいること自体は、社会全体に利益をもたらします。それはまた別の話ですが)

 

しかし、人文系の勉強で得た知識は、意外なほどに役立つことがあります。人間関係などの場面において役立つので、コミュ力の強化といってもいいでしょう。そして、世間的には人文系の勉強は「教養を得る」などという文脈で語られています。「会計学や法学、工学などの実践的な知識は、すぐに役立つがすぐに時代遅れになる。所詮は小手先のテクニックだ。それよりは、古典を読み、歴史を知り、『物事の本質的な教養』を学ぶべきだ。教養こそ役立つのだ」といった意味合いです。(こういう文脈での「教養」は、大体において文学や歴史などの文系科目ばかりで、数学や物理学などの理系科目は除外されがちなのですが)

 

確かに、実践的な知識は廃れるのも早いので、その知識だけを学習するのは具合が悪いというのは納得できます。しかし、「教養」、文脈に即して言い換えると「人文系の知識」が、どういった場面で役に立つのかは、いまいちピンときません。

 

しかし、世の中を見てみると、人文系の知識があるからこそ読み取れる場面というのは意外なほどに多いです。そしてそれは、人間の思考や行動は千年前だろうと現代だろうと、西洋だろうと東洋だろうと本質は同じで、それはまるでフラクタル(一部分と全体の見分けがつかない構造や模様、海岸線や株価チャートの動き、雲の形など)のような構造を持っているからではないかと思うのです。

 

 

人文系の知識に潜む、フラクタルな模様

人文系の知識では、人間の思考や行動が千年単位で積み上げられたものがその多くを占めます。古代ギリシャから続く哲学の歴史や、1000年前の平安時代に本格的に花開いて以来ひたすら洗練されてきた日本の散文、文字の誕生以来記録され続けた歴史の知識などです。そして、これらのすべては人間の手によって生み出されたものです。どこを切り取ってもそこには人間の息遣いがあり、部分と全体は構造的に似通っています。まさにフラクタルともいえるのではないかと思うのです。

 

そして、人文系の知識の内、歴史や哲学にある程度詳しくなって、その「模様」をある程度理解できるようになった後に、視点を現代に移し替えると、驚くほど似たような「模様」が繰り返されています。国際情勢や政治、ビジネス上の競争などの対立構造は、大昔の大国の戦争とほとんど変わりがありません。新興勢力と既存勢力がパワーゲームを繰り広げるというのは歴史の定番です。昔の文学に描かれている「生きる上での悩みや喜び」は、大体今も同じです。徒然草山月記といった文学作品は、簡単に現代の話に置き換えることができます。哲学者や宗教家が残した思想は現代でも人々の思考に影響を与えていますし、全く新しいことを考え付いたつもりでも、大体は昔の思想家が似たようなテーマに取り組んでいます。

 

ビスマルクの格言に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というのがありますが、これこそまさに「歴史はフラクタルな模様であり、昔も今も人間がやることの本質は変わらない」という事なのだと私は考えています。また、「歴史は繰り返す」という言葉は、歴史がフラクタルな構造であることを、もっとも端的に言い現わしていると思います。

 

そしてそれは国家の興亡だけではなく、思想や文学の歴史、つまりは思想史や文学史でも似たようなものだと思います。宗教は往々にして過激な異端へ突き進むことがありますが、それはキリスト教からマルクス主義まで似たような展開を見せます。文学では、物語のほとんどがいくつかの類型に分けられると言われています。(Wikipedia・物語の類型

 

人文系の勉強では、そういった繰り返されるフラクタルな模様・構造を理解していくことが、かなり重要な事で役に立つ事なのではないかと私は思います。「歴史は暗記科目じゃない。流れをまずは把握するんだ」というのはよく言われることですが、これこそまさに「まずは構造を理解しろ」という事でしょう。もちろん個別の人名や地名の暗記も必要ですが、人文系の知識を実際に役立てたいのなら、それよりは構造を把握することに力を入れるべきだと思うのです。

 

フラクタルな模様の知識を、現実で役立てる場面

では、そうやって人間の思考や行動が織りなすフラクタルな模様の集積という人文系の知識の一側面は、具体的にどういった場面で活用できるのでしょうか。

 

分かりやすいのが国際情勢や戦争の理解です。現在、アメリカと中国が世界の覇権をめぐって争っていますが、結局は既得権益者であるアメリカと、新興勢力である中国の対立に他なりません。第一次世界大戦のイギリス・フランスとドイツの対立や、太平洋戦争における日本とアメリカの対立と根本的な構図は同じです。

 

しかし、歴史を知らない場合は、かなり視野を狭めてしまうことになります。「新興勢力vs既得権益者」という構図を知らなければ、正義と悪の対立に見えてしまうのです。そうなると、現代の米中対立においては、親中国の人はアメリカが絶対悪に、親アメリカの人は中国が絶対悪に見えてしまいます。この、「相手を絶対悪とみてしまう」という愚を犯したのが旧日本軍で、戦時中に鬼畜米英として欧米文化を排斥してしまい、「敵を知る」という事ができなくなりました。反対に、戦時中のアメリカは日本文化への研究を行い、そういった研究の成果は戦後に「菊と刀」という、日本文化論の傑作にまとめられています。そういった日本人への研究が、太平洋戦争でのアメリカの圧勝の一因になったことは否定できないでしょう。日本人の文化・思考を知ることで、日本軍の行動を予測でき、結果的に戦争を有利に進められるからです。

 

歴史を知ることで、目の前の対立を客観的に観察できるようになり、冷静でバランスが取れた対処が取れるようになります。また、今後の動向を予測するうえでも役に立つでしょう。個々の戦争や抗争を調べていくと、「これをやったら負けてしまう」というような原則が発見できることもあります。それをまとめた書籍に、「失敗の本質」という、旧日本軍の失敗をまとめたものがあります。

 

そして、歴史以外にも、思想を知ることも役に立ちます。思想を学んでいくと、過激な原理主義と、穏健な折衷主義の繰り返しが目につきます。その周期的と言っていいほどのリズムは現代も繰り返されていて、リベラル思想が最近は過激化しているように思えます。例えばスイスでは、「甲殻類の残酷な扱いを禁止する法律」が、2018年の3月に施行されましたが、これは「人道」や「権利」を是とするリベラル思想の原理主義化とみることもできるでしょう(動物の権利・人道的なロブスターの殺し方 スイスの場合)。思想が過激化していく場合は大体似ていて、それを知ることで、自分や周囲の人間が極端な思想にハマることをある程度防げるようになります。

 

また、欧州では移民の増加により社会秩序が崩壊してきていると言われていますが、これも「難民の受け入れは人道的な行為であり、難民の受け入れ拒否は人道にもとる悪行である」という「教義」に縛られて、許容量を超えた難民を受け入れてしまったが故の悲劇でしょう。現実離れした思想のせいで社会そのものが弱体化する過程は、清帝国儒教固執したり、ソ連共産主義を実現しようとしたりした末に歩んだ道にそっくりです。(もちろん、新自由主義固執している今の日本も)

 

そして、思想は個々人の考え方に知らず知らずのうちに影響を与えています。そのため、思想のいくつかの類型を知っていると、他人の思考が手に取るようにわかる場面が多々あります。わかりやすいのは、戦前の国粋主義的な思想を知っていると、現代の右翼の考えていることが大体予想がつくというのがあります。他には、ルソーのような極端な性善説を知っていると、「自然派」と揶揄される人々の思考がある程度までわかるようになります。また、資本主義は近代西洋思想の産物でもありますが、その資本主義の中で大きな役割を果たす経営者たちの思考は、個人の理性を尊重する近代の西洋思想で読み解ける場合が大半です。

 

つまりは、思想を知っておくことは、他人の思考を分析するツールを増やすことになり、人間関係において役に立ちます。相手の思考を分析するツールを多く持っていれば、「相手が嫌がることと喜ぶこと」を予想しやすくなり、人間関係を有利に持っていきやすくなるのです。また、文学も、人間の悩みや喜びが描かれたものですが、文学を通じて感情の代理経験を積むことも、人の気持ちを理解しやすくなることに繋がります。(とはいっても、完璧に相手を理解できるようになるのは無理ですが。あくまで多少ましになるといった程度です。私はもともとの理解力が低いので、今でも人間関係での失敗を繰り返しています…)

 

それに、思想や文学を通じて「思考や感情のストック」を蓄えておくと、バランスよく考え、感じることができるようになります。それを活用(悪用)すれば、他人の思考をコントロールできるようになるかもしれません。演説が上手い人というのは、自分の思考や感情をパッケージへと加工し、他人に伝達しやすい形にすることで、人を動かすことができます。その加工のプロセスにおいて、思考や感情のストックが多いことは有利に働くでしょう。

 

それを上手く活用している人に、社会学者の上野千鶴子があげられるでしょう。2019年東大入学式での彼女のスピーチは物議をかもしましたが、物議をかもしたその時点で「(賛成の方向にも反対の方向にも)人の心を動かす」ことに成功しています。良くも悪くも、彼女はその道の達人なのでしょう。

 

コミュ力増強」こそが、人文系の勉強の最大の効用かもしれない

歴史や思想、文学などの知識は、数千年にわたる人間の思考や行動の集積であり、その内部に潜むフラクタルともいえるであろう構造は、現実において役に立つという話をしてきました。

 

それは結局、「人間について知る」事だと、私は思います。そして、人間について知ることは、コミュニケーション能力の向上に繋がると考えています。とはいっても、「うぇーいww」と盛り上がるタイプのコミュ力ではなく、「社会状況や人間関係を踏まえたうえで、相手の考えや気持ちを推測し、相手の懐にそっとはいりこむ」といったタイプのコミュ力です。相手の懐に入ることができれば、他人からの信用や信頼を勝ち取りやすくなります。

 

いくら話し上手でも、他人の懐に入れない人は信用されません。「あの人の話は面白いんだけど、なんか薄っぺらいんだよなあ」というような状態です。逆に、口下手であっても何故か人気を勝ち取る人がいますが、そういう人は上手く相手の懐に入れているのかもしれません。

 

結局、自分も相手も人間の1個体で、数千年、数万年という歴史を持つ人類の一部分でしかありません。人文系の知識とは数千年にわたる人間の思考と行動の集積ですが、その集積の中にある構造と、個々の人間の思考や行動の構造がフラクタルであれば、その構造を把握することで、個々の人間の思考や行動への理解を深めることができると思うのです。その結果、現実の人間関係や、人間集団同士の政治的なやり取りにおいて、相手と仲を深めたり、状況を客観視して有利に立ち回ることができるのだと思います。

 

そのためには、歴史上の人物の名前や、ある思想家が打ち出したある概念について細かく暗記する必要は必ずしもありません。むしろ流れや構造の把握、現代との類似点といった部分に目を向けて、暗記よりも理解を重視した方が良いと思います。歴史や思想、文学などから、ある程度普遍的な構造を取り出せればよいので、個別的な細かい知識に囚われる必要は必ずしもないのです。(アカデミックな場で勉強するのであれば、細かい知識を習得する必要もあるでしょう。あくまで実用に役立てるなら、そこまで細部にはこだわらなくていいと思います。むしろアカデミックな場では、私の考えはそこそこの邪道だと思われます)

 

そして、「教養は根本的なものだから、長期的に役に立つ!」というような主張は、結局は「歴史や思想、文学を通じて人間を知ることで、人間の間で有利に立ち回る」という事なのだと思います。それは結局、コミュニケーション能力の向上であって、確かに役に立つでしょう。

 

ただ、忘れてはならないのは、何か特定のハードスキルが身につくわけではないという事です。人文系の教養にのみ特化して、人間の間で有利に立ち回れるようになっても、簿記がわからず、法務に詳しいわけでもなく、技術力があるわけでもなく、営業トークもできないとなれば、せっかくのコミュ力も豚に真珠といった状態になりかねません。人文系の知識はソフトスキルの向上には役立つかもしれませんが、基本的にハードスキルの向上にはつながりません(周辺知識が増えて、ハードスキルの習得に役立つ場面はあるかもしれませんが)。実務の世界で生きていくのであれば、そのあたりのバランスも大切になってくるのではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

 

 

断捨離やミニマリストは、資本主義に究極に頼った生き方だという話

こんにちは、カラマゾフです。

 

「断捨離」や、「ミニマリスト」は、以前ほど流行らなくなったようですが、依然として実践者は絶えないようです。

 

確かに、家の中にモノが溢れていると、どうしても気が散ってしまったり、片付けが難しくなって衛生的ではなかったりします。そういった「モノが溢れている状態」を避けるために、身の回りの生活用品を最小限に抑えるというのは、理にかなった生き方だとは思います。(ちなみに私は本を溜め込む癖があるので、ミニマリストという生き方はできそうにありません)

 

「モノを減らすことで、居住空間を快適にし、生活の質を向上させる」という考えのもとで断捨離を行ったり、ミニマリストになるのであれば、それは素晴らしいことだと思います。自分にとって何が快適なのかを把握し、それを実践するという生き方は、非常に合理的だからです。

 

しかし一方で、「行き過ぎた資本主義・消費文化に異議を唱えるために、断捨離を行ったり、ミニマリストになる!」といった主張には、首をかしげざるをえません。なぜなら、断捨離やミニマリストといった生き方は、資本主義が高度に発達したからこそ可能になったからです。資本主義に意義を唱えるために、資本主義に頼った生き方をするというのは、なんともちぐはぐに見えてしまうのです。

 

今回は、そのことについて書いていきます。

 

市場(しじょう)でいつでもモノを調達できるからこそ、モノを捨てることができる

ミニマリストを目指したり、断捨離を行ったりするには、まずは身の回りのモノを捨てなければなりません。では、何故その「モノ」を捨てても困らないかを考えると、それは「いつでも買うことができるモノ」だからです。「アマゾンでポチるなり、ダイソーやイケアに行くなりすればいつでも買えるのだから、わざわざ手元に置いておく必要はない」、という理屈です。

 

そしてそれは、「市場(しじょう)」をフルに活用し、それに頼っているという事でもあります。市場(しじょう)とは、商品やサービスの取引が行われる場をすべてひっくるめて抽象的に表現した経済学の用語ですが、その市場が発達しているからこそ、モノをいつでも調達できるのです。(ちなみに、この記事において「市場」という言葉が出た場合、それは「いちば」ではなく、「しじょう」と読みます)

 

市場が発達していれば、お金を出せばいつでも必要なモノが買えるため、市場に頼ることは合理的な選択になります。市場が発達し、アマゾンやダイソーなどの小売業者が繁栄しているからこそ、必要なモノをいつでも調達できるようになっているのです。

 

逆に、市場が発達しておらず、小売業者や流通業者が未熟な状態を考えてみましょう。街中の店にいっても商品は不十分で、ネット通販なんてそもそも存在しないような状況です。そのような状況だと、「モノを捨てる」という事は、大きなリスクをもたらしかねません。後から必要になっても、捨てたモノは戻ってこないのですから。

 

「モノが溢れている時代に、モノを溜め込まない生き方を選択する」というのは、自分がモノを溜め込まなくても、「市場」がいくらでもモノを溜め込んでいて、必要な時にはすぐ手元に運んできてくれるからこそ成り立つのです。つまりは究極に市場に頼った生き方であり、資本主義の世の中だからこそ選択できるライフスタイルなのです。

 

ミニマリストとは、「家の中ではなく、市場にモノを置いておく生き方」と言い換えることもできるでしょう。市場からモノを引き出すためのお金と、モノについての情報を集めるための電子機器、そしていくつかの生活必需品を身の回りに置いてシンプルな生活を追究しつつ、緊急時には市場から即座にモノを買ってくればよいのです。

 

そして、自分の居住空間や生活を快適にするためにミニマリストという生き方を選択するのであればよいのですが、「資本主義に異議申し立てをする!!」といった意味合いでミニマリストという生き方を選択するのは、そもそも根本的にどこかちぐはぐなのです。

 

 

「モノが無かった状況」に生まれ育った人ほど、「モノを溜め込む」

では、断捨離やミニマリストとは対極の人たち、つまりは「モノを溜め込む人たち」は、どういったバックグラウンドを持っているのかを考えると、また違った景色が見えてきます。

 

「モノを溜め込む人たち」の筆頭と言えば、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんでしょう。モノが無かった時代に生まれた彼らは、現代に生まれ育った人間の目には異様に映るくらいにモノを大切にします。コンビニでもらったプラスチックのスプーンや、デパートでもらった紙袋、破れた古着などを大切に溜め込んでいるといった具合です。

 

そんな彼らのモノへの意識は、「モノを大切にする」というよりは、「モノに執着している」とすら見えることがあるのですが、それは彼らが決して「モノが溢れた資本主義社会において堕落している」からではありません。むしろ、「資本主義が未発達or機能不全で、モノが無かった時代の感覚を、今も引きずってしまっている」からです。

 

戦前や戦中の日本は、都市部はともかく農村部はまだまだ貧しかったですし、戦後もしばらくは物資不足でした。そんな状況に生まれ育った世代の人間にとっては、いつでも市場でモノが調達できるという事が感覚的に理解できないのでしょう。

 

また、現代でも貧しい家庭にはモノが溢れてて、逆に裕福な家庭にはモノが少ないという事も言われたりしますが、これもおそらく同じことでしょう。市場の恩恵を充分に受けられず、モノをいつでも調達できる状態ではないのであれば、モノを溜め込むのは合理的だともいえます。

 

「モノを極端まで減らす」というのは、資本主義が発達していて、その上市場からいつでもモノを引き出せるくらいに裕福だからこそできる事なのです。

 

 

 「資本主義」自体は別に汚いものではない

ということで、ミニマリストや断捨離は資本主義に頼った生き方であると書いてきました。資本主義が発達していて、市場からいつでもモノが取り出せるからこそ、身の周りのモノを最低限に抑えられるという事です。

 

そして、資本主義に疑問を感じてるからこそ、断捨離を行ったりミニマリストを実践するという事は、非常にちぐはぐなことだという事も理解いただけたと思います。

 

そもそも、「資本主義」を過度に汚いもの、唾棄すべきものだと考える思考自体が、根本的に間違っていると私は思うのです。確かに資本主義は労働者の搾取や、全てを商品化してしまう事に繋がり、人間にとって不幸をもたらすという側面は存在します。しかし一方で、個人の私利私欲を全体の繁栄につなげることで、人間の生活水準を大幅に向上させてきたという側面も存在します。

 

資本主義はあくまで価値中立的なもので、それを如何に上手く利用するかがポイントなのではないかと思うのです。それに対して異議申したてをするために断捨離やミニマリストを実践するというのは、消費パターンを変更するというだけの話であって、基本的には資本主義の中で踊っているにすぎないのだと思います。

 

それよりは、普段は持ち物を最低限にして居住空間を快適に保つ一方で、いざというときは市場を徹底的に利用するという心構えを持った方が、理にかなっていると思うのです。

 

そして、そういう考え方だと、「本当に捨てるべきモノ」が何なのかが見えてきます。いくら高価なモノであっても、市場で調達できるモノであれば、それは大事に所有していても意味がありません。

 

逆に、自分の必要な情報が詰まったスマートフォンや、「物自体への愛着」が湧いている漫画やグッズなど、「手放してしまったら、もう二度と同じモノや、自分にとって満足できるモノは手に入らないモノ」こそ、捨てるべきではないモノになります。市場では調達できないモノこそ、大切にするべきなのです。そして、それは人によって異なります。その辺を徹底的に考えてこそ、本当に生活の質を向上させることができるのではないでしょうか。

 

資本主義はあまりに巨大で、普通の人間がちょっとやそっと消費パターンを変更したところで揺らぐものではありません。逆に、そういった、「消費を切り詰めるという消費パターンを持った人」の存在をかぎつけるや否や、ターゲットに設定してきます。ミニマリストや断捨離を進める多くの書籍や、「シンプルライフ」を前面に押し出した家具などがその最たる例です。

 

それは逆に言うと、「自分が希望する生活パターンを提示すると、資本主義が勝手にそれに必要なモノを取り揃えてくれる」という事でもあります。資本主義は、真っ向から歯向かおうとするとカモにされてしまいますが、柔道のようにその巨大な力を逆に利用すれば、自分にとって利益をもたらしてもくれるのです。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

ヒュッゲ 365日「シンプルな幸せ」のつくり方 (単行本)

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大企業正社員は、現代の下級中級貴族なのではないか

こんにちは、カラマゾフです。

 

現在の日本では、じわじわと広がってきた格差がそろそろ限界を迎えようとしている観があります。池袋での交通事故の容疑者(元官僚)に対する苛烈な突き上げや、N国党などの過激な政党が議席を獲得したことなどにも、格差拡大による不満の増大が見て取れます。

 

そんな中、経済的困窮からは(現時点では)遠いところにいる人々が存在します。大企業の正社員、中でも総合職の社員たちです。彼らは額面の給与こそ大した金額には見えない場合であっても、家賃補助をはじめとした福利厚生が手厚く、中には一年目で100万円以上を貯金できる場合もあるそうです。

 

とはいっても、そんな大企業の正社員であっても、決してこの先安心できるわけでもないというのは、よく言われていることですが。

 

そして、そんな大企業の正社員、特に総合職の人々を見ていて思ったことがあります。

「大企業の正社員は、現代での貴族階級といえるだろう。とはいっても、上級貴族というよりは、下級から中級貴族にすぎないけれど」

といったことです。大企業という定義はあいまいですが、東証上場一部の企業や、伝統ある日系大企業を想像していただければいいと思います。

 

今回は、そのことについて書いていきます。

 

「学力≒教養」と「洗練された立ち居振る舞い」を身についている、どことなく貴族的な雰囲気のある人々

大企業の正社員になるためには、それなりに勉強しなければなりません。最低でも、マーチや関関同立、地方国立大といった大学に入学できる学力が無ければ、そもそも大企業の門をたたくことはできないでしょう。できれば旧帝国大学早慶の受験を突破することが望ましいです。

 

「学歴は関係ない。人物重視だ」と言う人もいますが、大企業の多くは学歴フィルターといって、就活で選考を希望する学生を学歴で選別しています。

 

そして、大企業の眼鏡にかなう大学に入学するには、それなりの学力を身につけなければなりません。進研模試では、偏差値が60を超えたあたりから国立大学やマーチ関関同立といった大学の合格可能性が見えてくると言われています。進研模試はほとんどすべての高校生が受験する模試であるため、同世代の中でどの程度の学力があるかを最も把握しやすい模試です。

 

そして、偏差値60というのは上位16%ほどの位置にいることを表しています。つまり、大企業に入るには、大体の場合において「同世代の中で上位16%以内に入る学力」を身につけなければならないと言ってもいいでしょう。

 

(偏差値と上位の割合については、こちらのサイトがわかりやすいです)

komoriss.com

 

そして、「学力」という言葉は、「教養」という言葉に置き換えることも(無理やり感は否めませんが)できます。日本語だけでなく英語を読みこなす能力や、歴史や政治経済への知識、理数系の知識を網羅してこそ、上位16%の学力を手に入れることができますが、それは教養と言っても差し支えないでしょう。実際に、難関大学の学生とそうでない大学の学生では、「難しい話」への食いつきはかなり異なってきます。

 

そして、そのように同世代で(最低でも)上位16%の学力を身に着けた学生が、大企業の選考を受けることができます。そして、そのような学生たちは「就活」のなかでふるい落とされていき、その中でも立ち居振る舞いや言動がそこそこ優れている学生が面接などを突破して、晴れて大企業の内定を得ることになります。

 

つまり、大企業の正社員となれるのは、「上位16%以上の学力≒教養」と、「洗練された立ち居振る舞い」を両立している学生だけなのです。そう考えると、大企業の正社員は「貴族的な人々」といってもさほど違和感がなくなってきます。昔から貴族に求められていたのは「教養」と「マナー」ですが、その二つを持っているのが大企業の正社員なのですから。

 

実際に、大企業の正社員の人たちは、それなりに貴族的な雰囲気を発していることが多いです。それらは教養や立ち居振る舞いなどだけではなく、「経済的に恵まれていること」も、大きな要因になってきます。

 

経済的にはそこそこ恵まれているものの、経済的基盤はそれほど盤石ではない

 大企業の正社員は、経済的にはそこそこ恵まれています。社宅や家賃補助などを活用して、ただ同然の家賃で生活していることがありますし、そういった補助がなくとも、平均的な給与は他の中小企業と比べて恵まれたことが多いです。

 

そして、大企業の正社員は経済的に恵まれているために、それなりに質のいいスーツと靴を身に着けています。また、美容院に通ってヘアスタイルを整え、私服も質のいいものを取り揃えていることは珍しくありません。特に女性の場合はこの辺が顕著になる気がします。

 

経済的利点を生かして「身ぎれい」な状態を保っている彼らは、やはり貴族的といってもいい雰囲気を醸し出している場合が多いです。

 

そして、経済的に恵まれていることは、恋愛市場や結婚市場でも有利に働きます。家庭を持って子供を作ることは、もはや贅沢品ともいえる状況になっている現代において、彼らはなかなか恵まれた状況にいると言ってもいいでしょう。

 

しかし、彼らの経済的基盤は決して盤石ではありません。経済環境の変化によって所属企業の業績が悪化すれば、簡単にリストラされてしまいます。最近では、損保ジャパンの実質的なリストラスキームが話題になりました。

www.mag2.com

 

そういった経済的基盤の弱さという点に関しては、大企業の正社員はさほど恵まれているわけではありません。私が彼らの事を「下級貴族」「中級貴族」とたとえたのも、そういった経済的な基盤の弱さがあるためです。彼らは確かに恵まれた立場にはいますが、「もっと上の人のさじ加減一つ」で、簡単に経済的困窮に追い込まれてしまう、案外弱い立場の人々なのです。

 

「人生の脆弱性」に関しては、決して恵まれているというわけではない

 経済的は恵まれていても、経済的基盤については決して恵まれていない大企業の正社員の人たちですが、彼らは「人生の脆弱性」という点については、普通の人々と同じように常に危険にさらされています。

 

会社の命令1つでへき地に転勤する場合もありますし、結婚して共働きの場合は単身赴任か配偶者が退職するかを選択しなければなりません。また、マイホームをローンで購入したとして、隣人が「厄介な人」だった場合も、簡単に家を買い替えるわけにもいきません。何より、パワハラなどの職場トラブルで退職を余儀なくされる場合もあります。

 

大企業正社員の人々の人生は、意外なほど「脆弱性」が高いのです。そして、いったん大企業正社員という立場を失うと、意外なほどあっさりと没落してしまいかねません。元大企業正社員というだけで高給で雇ってくれるような、のんびりとした会社はおそらくほとんど存在しないでしょう。大半の企業にしてみれば、大企業をリストラされた30代40代の中年よりも、フレッシュな新卒を採用して育てる方が効率的だと判断するはずです。

 

そういった意味では、大企業正社員の彼らは確かに貴族的な雰囲気を持っていても、「最上位の階層」だとは言えないでしょう。あくまで、下級貴族、中級貴族と捉えるのが適切なのではないでしょうか。

 

結局は彼らも株主への配当や地主への地代を稼ぐための奴隷や傭兵でしかなく、真の「最上位の人々」というのは、地主や大株主などの資産家なのでしょう。不労所得で生活する資産家の人々は、まさに現代における本物の上級貴族と言っていいのかもしれません。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

不毛地帯(一) (新潮文庫)

不毛地帯(一) (新潮文庫)

 

昔の翻訳小説に出てくる「無理やりで説明的な翻訳語」の魅力

こんにちは、カラマゾフです。

 

外国文学を日本語に翻訳した小説では、「外国にはあるけれど、元々日本には存在しなかった物事」が頻繁に登場します。例えば、ワインやチョーク、オートミールなどです。現在ではそれらの言葉は外来語として定着しているため、外国の発音をカタカナに置き換えて表記されています。

 

ところが、昭和や明治大正の時代に日本に翻訳された小説では、これらの外来語が「日本語に置き換えられている」という場合があります。ワインがぶどう酒、チョークが白墨、オートミールが麦粥などといった具合です。

 

おそらく昭和以前には、一般的な日本人は外国の文化についてほとんど知識がなかったと思われます。そのため、例えば「ワイン」が何なのか、具体的に知っている人は少なかったのではないでしょうか。そんな人が小説を読んでいて、「ワインを一口飲んだ」という表現が出てきたとしても、いったい何の事かさっぱりわからなかったでしょう。

 

そして、そういう「読み手の知識不足」は、翻訳において頭痛の種になります。外来語として「ワイン」と押し通すと、読み手は何のことだかわかりません。かといって、日本にはもともとワインは存在しなかったので、適切な訳語があるわけでもありません。

 

しかし、何とかそれを解決する方法があります。「外国の言葉を、日本語で無理やり置き換える」という事です。例えば、ワインには「ぶどう酒」という訳語がありますが、おそらくこの言葉はそういった苦労の中から生まれてきた言葉でしょう。(違っていたら申し訳ないです)

 

ワインを知らない人であっても、「ブドウから作られたお酒」と言われれば何となく想像はつきます。そして、「ぶどう酒」という表現は、「ブドウから作られたお酒」を表現するには適切な造語になります。

 

他にも、「チョーク→白い墨→白墨」、「オートミール→麦で作った粥(かゆ)のようなもの→麦粥」などといった表現が、似たような言葉にあたるでしょう。

 

こういった「無理やり日本語に置き換えたような言葉」は、確かに外国にあって日本にないものを伝えるには適切ですが、一方でどことなくぎこちない感じがします。

 

外国文化が日本に浸透した昭和後期や平成時代に書かれた文章を読むと、大体において「ワイン」「チョーク」「オートミール」のような言葉は、外国語の音をそのままカタカナに置き換えた外来語として登場します。そのことは、「ぶどう酒」「白墨」「麦粥」といった言葉が、どうにもしっくりこないという事を裏付けているのではないでしょうか。

 

しかし私は、「無理やり日本語に置き換えたような言葉」にも、独特の味があると思うのです。そういった表現は、確かに語感としてはぎこちないものの、「物そのもの」、つまりワインであれば「ブドウから作られたお酒としての、ワインそのものの性質」を、リアルに感じさせる表現だとも思うのです。そして、翻訳小説などであれば、そういった「リアルな感じ」は、小説の世界観に没頭するうえでは、かなりの助けになってくれると思うのです。

 

そして、そういった話題についてツイッターで話していたところ、フォロワーの一人に、「エンジン→発動機」、という翻訳もいいですよ!堀口大学訳の『人間の土地』(原作はサン・テグジュペリ)の中に出てくる表現です」と教えてもらえました。

 

実際に読んでみたところ、「発動機」という表現は実際に出てきましたし、他にも「コート→外套」、「パイロット→操縦士」といったような表現もありました。

 

「人間の土地」は、飛行機乗りについての話なのですが、「エンジン」よりも、「発動機」という表現の方が、機械がガソリンを燃やして荒々しく音を立てる様子、その荒々しい動きが回転運動になってプロペラを動かす様子、そういった燃焼や動作から発せられる独特のにおいといったものが、感覚的に、リアリティを伴って立ち現れるような気がします。

 

そして、そういったリアリティこそが、「無理やり日本語に置き換えたような言葉」の最大の魅力だと思うのです。どれほど現代の日本に外国文化が定着しようと、外国、特に西洋の物事はまだまだ「異物」という感覚は否めません。「ワイン」などの言葉を、そのまま外来語としてカタカナで表現する方が確かに文章は引き締まるでしょうが、「異物が混ざっている」という感覚は拭えないでしょう。

 

一方で、「ぶどう酒」という表現は、ぎこちないのは確かですが、ワインそのものの性質を上手く伝えてくれて、日本人の自分にとってはワインが異物であることを一瞬忘れさせてくれます。むしろ、自分が西洋人になって、ブドウで造られたお酒を楽しんでいるような感覚にさせてくれる気がします。

 

「無理やりで説明的な翻訳語」は、確かにぎこちなさはあるのですが、その翻訳された単語そのものを上手くイメージすることができる上に、カタカナで表記される外来語独特の異物感を軽減してくれて、まるで自分が元々外国人であったかのような気分にさせてくれると思うのです。

 

最近では、そういった表現がどうにも少なくなっているのが、個人的には残念だなと思う時もあります。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

人間の土地 (新潮文庫)

人間の土地 (新潮文庫)

 

季節の変わり目に、時の流れを突き付けられて、寂寞に包み込まれる

梅雨が終わりを迎え、夏が本格化してきました。

今年(2019年)は梅雨入りが遅く、涼しい初夏が長く続きました。そしてその分、梅雨入りと同時に訪れた、ねっとりした夏の空気に、いきなりたたき起こされたかのような衝撃を覚えました。

そしてそのような夏の訪れを実感する季節になると、私は毎回一種の寂寞、不安やむなしさが混ざったものに襲われます。セミの鳴き声や、晴れ間に見える入道雲、湿った風などに、夏の華やかさを感じる一方で、寂莫に包み込まれてしまうのです。

 

季節の風物詩、特に自然現象は五感に訴えかけ、無意識に働きかける

季節の風物詩というと、お盆やクリスマスなどの行事と、入道雲や木枯らしといった自然現象に分けることができます。中でも風物詩としての自然現象は、季節の変化を五感に訴えかけ、無意識の領域に浸透し、季節の鮮烈なイメージを思い起こしてきます。

例えば、セミの声を聴いた瞬間や、蒸し暑い風に包まれた瞬間、夏の日差しに目を焼かれた瞬間に、言葉ではいい表すことのできない「夏」を、体の底から実感したことがある方は多いと思います。

そして私は、そのように無意識レベルで「季節の変化」を感じる際、「時の流れ」も無意識レベルで感じ取ってしまう気がするのです。時間が流れていることは理性で把握することは容易ですが、肌で感じるとなると難しいものです。しかし、季節の風物詩はそういった障壁を軽々と飛び越えて、「時の流れ」を、肌で感じ取らせて来るのです。

季節が変化したことを実感すると同時に、時が移ろったことをもまた実感させられるのです。そしてそのことで、自分が時の流れの中にいることを直視させられるのです。

また、無意識の領域で季節を感じるということは、時の流れを実感させるだけではありません。無意識の領域に収納されていた過去の記憶を、一気に呼び起こしてくるのです。そしてそのことで、時が流れていることをより強く実感させられてしまいます。

 

過去に叩き戻されて、時間を浪費したことへの後悔に襲われる

記憶は五感に紐づけられていると、どこかで読んだ記憶があります。実際に、懐かしい匂いを嗅いだ瞬間に、過去の記憶が呼び起こされるということは、よくある事らしいです。

それと同じように、夏の到来を告げる自然現象は、五感に作用して、過去の夏の記憶を一気に呼び覚ましてしまいます。セミの鳴き声、ねっとりした風、ぬるくて冷たい夕立、こういったものがきっかけになって、普段は忘れていた記憶が、一気に思い起こされて押し寄せてくるのです。

それは、就学前のあいまいな記憶だったり、小学生の時の虫取りや泥遊びの記憶だったり、中学時代の部活の記憶だったり、高校時代の受験勉強の記憶だったりします。そういったとりとめのない記憶が、イメージの奔流となって押し寄せてきます。そのうちに、無秩序で混沌とした過去の記憶へと、意識が迷い込んでしまいます。

そうして過去に迷い込んでいるうちに、ある疑問がわいてきます。「今の自分は過去の自分よりも何か成長しているのか」「過去の自分に顔向けできるのか」「ただ生きてきただけで、時間を浪費しただけではないのか」「むなしく時を過ごしただけではないのか」といったようなものです。

そして、そのような自問自答を繰り返すうちに、自分の矮小さから目を背けられなくなり、どうしようもない自己嫌悪に落ち込んでしまいます。

 

過去に迷い込んだ後は、未来に迷い込んでしまう

そうして過去に迷い込んで、一通り自己嫌悪にさいなまれて現在に戻ってくると、今度は未来に迷い込んでしまいます。自分が通ってきた過去を振り返ることで、後々に通るであろう未来を眺めてしまい、いつの間にか未来に迷い込んでしまうのです。

そしてそこでも、不安や虚しさに襲われてしまいます。「今まで無為に過ごしてきた自分が、これから先何かを成し遂げられるのか」「まともな仕事でお金を稼いで健康的な生活を送れるのだろうか」「このまま年を取って、ただ終わりへと歩いていくだけではないのか」「仮に今から一念発起して何かを成し遂げられたとしても、どうせ後には何も残らないのではないのか」といったような観念に襲われるのです。

未来に対する漠然とした不安と、自分の人生に対する諦めが相まって、どうしようもない虚しさを覚えてしまうのです。そして、そうやって時間の流れの先にあるものを漠然と考えているうちに、無常というか、自分は所詮小さな存在で、雄大な時間の流れに翻弄されているだけにすぎないという事まで、思考が飛躍してしまうのです。

そして、ふと現実に戻ってきたとき、五感はいまだに夏を感じ続けています。そしてそこでまた、「こういった夏をこれから何回も何十回も繰り返すうちに、無為に時間を過ごして、最後は寿命を終えて時間の流れに沈み込んでしまうのだろうか」ということを考えてしまいます。そうなると、無性に逃げたくなるのですが、何から逃げたいのか、どこから逃げたいのかも分からず、ただ逃げたいという感情だけが募ってしまいます。

 

他の季節でも同じような寂寞を覚えるが、夏の寂寞は何かが違う

ぐちぐちと書いてきましたが、別に夏だけにそのような寂寞を覚えるわけではありません。春の桜にも、秋の夕暮れにも、冬の木枯らしにも、時間の流れを実感させられて、無為な日々を送った過去への後悔や、未来への漠然とした不安が入り混じった、奇妙な寂寞を感じることは変わりません。

しかし、夏に感じる寂寞は、他の季節に感じる寂寞よりもはるかに深くて、はるかに巨大なのです。夏を特別視してしまうのは、夏休み商戦を煽るメディアによる刷り込みに起因するものなのか、夏の華やかさによって生じるものなのか、単純に私の感性が偏っているだけなのか、どれなのかはわかりません。

しかし、理由がどうであろうと、私は夏の訪れに最も深い寂寞に包み込まれてしまいます。おそらくそれは一生変わらないのだと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

平成生まれの原風景 ~「中途半端な都会」という故郷~

こんにちは、カラマゾフです。

 

令和を迎え、日本人にとって新しい時代が始まりました。新元号だからと言って現実が大きく変わるわけではないのですが、それでも心理的な時間の区切りがついたことは大なり小なり影響をもたらしてきます。

 

生前退位の上にGW中の改元ということもあり、レジャーと結びついた正月のようなお祭り騒ぎは、独特の興奮をもたらしました。また、時代の変わり目ということもあり、過去を振り返る機会も多かったのではないでしょうか。

 

改元から日がたつごとに、平成を振り返る動きもひと段落してきました。平成前半生まれの私にとって、懐かしい日々を振り返る機会が得られたのは幸運でした。

 

そんな中、平成という時代に生まれた人間にとっての「原風景・故郷」というものが、一般的にイメージされる「原風景・故郷」とは異なるのではないかという疑問を持つようになりました。今回は、そのことについて書いていきます。

 

多くの平成世代にとっての本当の故郷は田園風景ではなく、灰色に覆われた中途半端な都会ではないのかという話です。

 

 

「原風景・ふるさと」=田舎の田園風景?

多くの日本人が「原風景・ふるさと」と聞いて思い浮かべるのは、田舎の田園風景ではないでしょうか。

 

都会生まれの人間であろうとも、夏休みの祖父母宅への帰省や、「ぼくのなつやすみ」「菊次郎の夏」といったような田舎を描いた作品を通じて、田舎の田園風景への郷愁が心に刷り込まれています。また、テレビなどで「故郷」がテーマとして描かれるとき、大抵は田舎の田園風景が故郷のイメージとして登場します。

 

童謡の「故郷(ふるさと)」で描かれるウサギを追った山、「赤とんぼ」で描かれる夕焼け小焼け、こういったイメージこそが日本人が共有している「原風景・故郷」の一般像でしょう。

 

しかし、「田舎で育ちました」という人は徐々に少なくなっています。都市化が進み、郊外も開発されてきた日本において、田舎で幼少期を過ごした人の割合は減ってきているのです。

 

「故郷=田園風景」という一般的なイメージは、昭和の時代では多くの人にとって実体験に基づいたものだったのかもしれません。しかし、今はもう「故郷=田園風景」は必ずしも実体験に基づいてはいないのです。

 

それでも多くの人にとって、「故郷=田園風景」は固定化された図式です。メディアが描く故郷像は相変わらず田園風景ですし、都会生まれの人もそのことに特に疑問は抱きません。何故こんな奇妙なことが起きているのかというと、「故郷=田園風景」という「常識」が強すぎたことが原因だと私は考えています。

 

「故郷」という言葉にあまりに強く「田園風景」が紐づけられていたために、「故郷」という言葉のイメージが変質してしまったのです。その結果、都会で育った人間であっても、田舎の田園風景が「故郷」だと錯覚をするようになったのでしょう。

 

言い換えれば、昭和時代には確固たる現実だった「故郷=田園風景」というイメージは、そのイメージがあまりにも強固だったために、平成時代を経るうちにいつの間にか「仮想現実」へと変質していったのです。

 

では、平成に生まれ都市部で育った人間にとっての「仮想現実ではない、本当の故郷」とはいったい何なのでしょう。私はそれは「中途半端な都会」だと考えています。

 

「中途半端な都会」という故郷

昭和の後半から、地方都市や郊外であっても開発がすすめられ、田園風景は都市化していきました。平成はその都市化が一層進展した時代でした。日本各地にコンクリートジャングルが広がった時代です。

 

コンクリートジャングルというと、一般的には東京のような大都市の摩天楼が思い浮かべられます。

 

しかし、地方都市であっても、アスファルトに舗装され、マンションや雑居ビルが並び、とにかく人工的な構造物があたり一面を覆っているのであれば、それはまぎれもないコンクリートジャングルなのではないでしょうか。摩天楼でなくとも、それは確かにコンクリートでできたジャングルなのですから。

 

そして中途半端な都会は、コンクリートジャングルとして人々の生活を包み込みます。

 

平成生まれの大半は、そんなコンクリートジャングルである「中途半端な都会」で生まれ育っています。地方出身者であっても、都市部で育った平成生まれは、田園風景に囲まれて育ったわけではありません。田園風景と比べるとなんとも貧弱な故郷かもしれませんが、「中途半端な都会」はまぎれもない故郷なのです。

 

「中途半端な都会」の色彩と匂い

「中途半端な都会」という故郷がどんなものか、私なりに考えてみます。

 

まず、大きな特徴となるのは「色彩」です。都市部の風景は、白や灰色、黒といったビルやアスファルトの無彩色が基調となり、そこにレンガの茶色や、公園や植え込みなどの申し訳程度の緑色が混ざっています。

 

そしてその色調は青空とは相性がよくありません。青空と無彩色のビルの組み合わせは映えるのですが、組み合わせが鮮やかすぎるのです。曇り空の方がビルとは似合います。曇り空に灰色のビルが溶け込むような無彩色。中途半端な都会ではこれが一般的な光景だと思います。

 

次に、いたる場所に人間の匂いと欲望が染みついています。コンクリートジャングルでもある「中途半端な都会」は人工物でおおわれているので、人間の匂いが染みついているのは当然なのですが、ポイ捨てされた空き缶やタバコの吸い殻、酔っ払いの吐しゃ物に果ては道端に落ちてる使用済みコンドームといったものは、むせかえる程の欲望を発散しています。

 

しかし、人工的な空間といっても、自然が皆無なわけではありません。いやむしろ、人工物に囲まれているからこそ、自然のたくましさが際立つのです。

 

アスファルトの割れ目に生えた雑草や、都会でしぶとく生きるカラス、頑丈なコンクリートを腐食させる雨水に、汚い川に住み着いた魚は、人間が自然を決して屈服させられないことを如実に教えてくれます。どれほど人間が自然を征服しようとしても、自然は征服者の懐に忍び込んでくるのです。

 

陰気な無彩色に、人間の匂いと欲望が染みつき、自然の強さが見え隠れする光景、これこそが故郷としての中途半端な都会だと思うのです。

 

田舎の田園風景と比べると貧弱かもしれません。しかし、そう大差はないと思うのです。無彩色の光景は細かく見ると変化に富んでいます。ビルの形や、電線と電柱の絡まり具合や、アスファルトの塗装のムラには意外なほどの多様性があります。田舎の用水路や田園が織りなす個性がコンクリートが織りなす個性に変わっただけです。

 

それ以外の点に関しても、田舎の道端に落ちているタヌキの死骸が、路地裏にぶちまけられた酔っ払いの吐しゃ物に変わっただけだと思うのです。肥壺が使用済みコンドームに変わっただけです。

 

では、そんな「故郷としての中途半端な都会」は、まったく無視されているのでしょうか。そうではありません。「浅野いにお」という漫画家の作品の中で、鮮やかに描かれています。

 

浅野いにお」が描く故郷としての中途半端な都会

浅野いにおという名前を聞いた事がない人もいるかもしれませんが、「ソラニン」という映画の原作漫画を描いた人だと言えばピンとくるかもしれません。そのほかにも、「おやすみプンプン」などが代表作です。

 

メンヘラご用達漫画と揶揄されることもありますが、感性にするどく刺さるからこそメンヘラに好まれるのでしょう。

 

彼の作品の中では、「中途半端な都会」の雰囲気が非常にリアルに描かれています。遠くに見える山々を背景に立ち並ぶマンション、コンクリートが腐食した汚い路地裏、雑草が茂る線路わき、マンションの薄暗い踊り場、そこで蠢く人々などです。

 

こういった中途半端な都会の光景は、平成時代に都市部で生まれ育った人間にとっての故郷であり、原風景なのだと思います。

 

そして実際に、浅野いにおの作品は若い世代の心をがっちりと捉えています。平成生まれの感性に刺さる何かがあるからこそ、ここまで支持されるのでしょう。その理由の一つに、平成生まれにとっての本当の故郷である「中途半端な都会」を鮮やかに描いていることがあげられると、私は考えています。

 

「故郷」は時代と共に変わる

昭和時代の多くの人にとっての故郷は、田舎の田園風景でした。田舎の中学高校を卒業して、都会に出てきて働いていた昭和から平成前半の現役世代にとって、田園風景は紛れもない原風景だったのでしょう。

 

しかし、平成後半から令和にかけての現役世代にとっては、田園風景は本当の意味での故郷ではなくなってきます。故郷が変わってきているのです。

 

平成の前半には、「故郷」はまだまだ田園風景でした。平成13年(西暦2001年)に公開された、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』では、主人公しんのすけの父親であるひろしが人生を回想するシーンがありますが、その中で田舎の田園風景が出てきます。

 

ひろしにとって、田園風景は実際に幼少期を過ごした故郷です。しかし、ひろしの子供であるしんのすけにとって、田園風景は故郷ではありません。しんのすけにとっての故郷は「中途半端な都会」である春日部です。そして、映画公開時の2001年にしんのすけが5歳だったとすると、2019年の現在ではしんのすけは23歳です。

 

クレヨンしんちゃん』の連載が開始されたのが1990年ですから、映画公開時ではなく連載開始時を起点に考えると、しんのすけは現在34歳の大人になります。その場合しんのすけは昭和生まれということになりますが、1985年(昭和60年)生まれのしんのすけは、ほとんど平成世代といって差し支えないでしょう。

 

私は平成の前半生まれですが、平成生まれというか平成世代にとっての故郷は、田園風景が広がる田舎よりも、コンクリートに覆われた中途半端な都会の方がしっくりくるのです。田園風景に郷愁を覚えることはありますが、それはメディアや宣伝によって刷り込まれた、作り物の郷愁といった感がぬぐえません。

 

「本当の故郷」は時代と共に変わって行くのです。そして、平成に生まれ育った世代は、「本当の故郷」である「中途半端な都会」に得も言われぬ郷愁を覚えるのでしょうし、だからこそ浅野いにおが支持されるのでしょう。

 

令和の時代に生まれ育つ人たちは、どんな「故郷」を持つのでしょうか。

 

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

世界の終わりと夜明け前 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

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読書量を冊数で測るおかしさ~冊数はあまり関係ない~

こんにちは、カラマゾフです。

 

自己啓発本や、成功哲学の本を読んでいると、まず、「本を読め」という主張にぶつかります。実際に読書が年収を押し上げるというデータもあり、読書が成功への道のりに欠かせないものであることは疑いようがない事実でしょう。

 

そして、ブログ記事でも読書について言及しているものは多くあります。現に私も、読書についての記事を書いたことがあります。

karamazov012.hatenablog.com

karamazov012.hatenablog.com

 

そのような、読書についてのブログ記事でよくあるのが「月に〇〇冊読破する方法」といったものでしょう。速読や各種読書法を活用して、1ヶ月の間に大量に読書する方法が書かれています。

 

しかし、そのような「冊数で読書量を測る」というのは、ある意味でおかしいことなのではないかと私は思っています。

 

実際に読書に没頭するとなると、最初から最後まで精読する本と、部分部分を飛ばし読みする本とが出てくるため、それらを同じ「一冊」と数えていいのかどうかという問題が出てきます。

 

また、理解しやすい自己啓発書と、難解な人文科学の本が同じ一冊だからと言って、それらを同列に扱うことはできないでしょう。内容の深さとボリュームが違います。

 

今回は、そのことについて書いてみます。

 

読書に慣れるほど、部分読みが当たり前になっていく

読書に慣れていくと、部分読みが当たり前になってきます。部分読みとは、本の中で重要な箇所や興味のある個所だけに目を通し、最初から最後までは通読しないという読み方です。

 

最初から最後まで読まないのであれば、本を買った意味がないと思うかもしれません。しかし、そうではないのです。本を読む目的は「情報を得る」という事が第一です。自分にとって有用な情報が手に入れば、その読書は成功したと言っても過言ではありません。

 

そのため、読書に慣れ、「読み方を知る」うちに、部分読みで必要な情報のみを得るのが当たり前になっていきます。部分読みをしていると、最初から最後まで本を読み通すわけではありません。

 

また、本によっては最初から最後まで通読する場合もあります。しかし、その冊数は限られているので、通読した本のみを読書数とすれば、途端に読書数は落ちてしまいます。

 

そのため「何冊を読破した」ということを、正確にいうことができなくなってくるのです。

 

本の「重さ」は、それぞれで全然違う

ある程度読書に慣れてくると、「この本は重いな」とか、逆に「この本は軽いな」というのがわかるようになってきます。物理的な重量ではなく、本の内容の重さのことです。

 

決して重い方がいいというわけではありません。しかし、重い本はやはり読むのに時間がかかり、一冊からくみ取れる内容も多くのものがあります。逆に、軽い本は読むのに時間はかかりませんが、その分娯楽としてよくできていたり、ハウツーを実践に移す際にすぐに実行できたりするといった長所があります。

 

「重い本」の中にもいろいろとありますが、小説で言ったら三島由紀夫の作品でしょう。彼の文章は非常に緊密で、比喩もちりばめられています。一言一句を鮮明にイメージしながらゆっくり読まなければ、真に三島由紀夫の文章を味わうことはできないでしょう。

 

また、実用書などの中では「サピエンス全史」のような学術的な要素を含む本は比較的重い気がします。実際にサピエンス全史は非常に濃い内容で、様々な周辺知識を同時に取り込むことができますが、その分じっくりと読み進める必要があります。

 

逆に、軽い本の例としては、池井戸潤などが書くミステリー小説などがあげられるでしょう。ミステリーは話の筋が重要なので、文章を重くしては読者が疲れてしまいます。そのため、軽くすらすらと読める本が多いのでしょう。

 

また、実用書などのなかで軽い本としては、「お金2.0」などのビジネス書があげられるでしょう。そのような本は、読み通しやすく、その分知識としてのアップデートが容易で、すぐに実践に移すことができるという長所があります。

 

「重い本」と「軽い本」の間に優劣の差はありません。あくまで用途が違うだけです。しかし、それらを「同じ一冊」とひとくくりにすることはできないでしょう。「サピエンス全史」と、「お金2.0」の両方をよんでみればわかりますが、この二冊の本を「同じ一冊」とカウントすることはできません。

 

「質と量」のバランスをとることが大事

読書では、いくら冊数を積み上げても、「軽い本」ばかりでは、なかなか実りが得られることはないでしょう。「軽い本」は、実践には役立ちますが、質より量が優先されているきらいがあり、「深い知識」を得るには向いていません。

 

逆に、「重い本」をじっくりと読み進めるだけなのも実践がおろそかになりかねません。「重い本」は質はいいのですが、量が足りなくなることもあります。それに、実践がおろそかになり、頭でっかちになりかねません。

 

「軽い本」で量を確保して、「重い本」で質を確保するのが、効率のいい読書方だと私は考えています。そして、その両者の本を同一の「一冊」とカウントすることはできません。

 

質と量のバランスをとりつつ、自分にとって有用な情報を手に入れ、血肉に変えていくのが「良い読書」といえるのではないでしょうか。そしてそこでは「読書数・読破した冊数」は、さして重要ではなくなるのです。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。カラマゾフでした。

 

 

レバレッジ・リーディング

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